※本稿は、山口博『悩める平安貴族たち』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
性格の相違で離婚した清少納言
清少納言は十六歳前後から五年間程家庭の主婦として収まった。
夫は陸奥守橘則光という武骨者で、盗賊に襲われ、相手を斬り殺した話などが伝えられている。その反面、どちらかというとエレガントな和歌などは苦手だった。普段から口癖のように「私を愛するつもりならば、歌というものを作るな。歌を詠んで寄越す人は、敵と思うぞ。離婚する時にこそ、そんな歌というものを詠んでくれ」と言っていた。妻とは真逆な人物だった。
この夫の言葉の返事に清少納言は、
と、「これでお別れ」と言い遣った。則光をやり込めるためか、意地悪な程複雑な技巧をもてあそんでいる。
大和国(奈良県)に妹山と背山があり、その間を流れるのが吉野川。妹山は妻の清少納言、背山は夫の則光、「中」に「仲」を、「吉野」に「好し」を、「川」に「彼は」をそれぞれ掛けている。崩れてしまった仲だから、好い仲とは見ないつもりだと離婚を言い渡したのだ。
こんなに手の込んだ技巧を凝らした歌に、優美な歌が不得手な則光が返歌などできるわけがない。石礫を投げて追い出すような、清少納言の意地悪な性格が垣間見られる。
結婚5年目で破綻
「まことに見ずやなりにけむ。返事もせず(私の歌を本当に見なかったのだろうか。返事もくれない)」と、「やり込めてやったわ」という声が聞こえてくるような、性格の相違からのロマンのない別離だった。結婚五年目のことである。
だから『枕草子』には、則光像をかなりオーバーに書いている。則光だって第五代目の勅撰和歌集の『金葉和歌集』や、私撰集だが『続詞花和歌集』に歌が採択されているほどだから、実際は歌が嫌いでも不得意でもない。
これだけでは単に離婚話になってしまうが、則光の子や孫が『枕草子』伝来に関係がありそうなのだ。清少納言と則光の間には一子則長がいたが、三巻本系と呼ばれている『枕草子』の一系統本は、則長の子の則季の手を経ている。
また、能因本系は能因法師の書写した系統だが、能因法師の妹が則長の妻である。則光は、元妻の書いた『枕草子』を人々に自慢し、則長に伝えたのだろうか。