父を残して帰京、結婚相手は子持ちの中年貴族
越前在国一年にして紫式部は父を残して帰京し、筑前(福岡県の北西部)守藤原宣孝と結婚した。宣孝は紫式部在京の頃から心を寄せていて、越前にいる紫式部に都から「春になれば雪も溶けるもの。私に対して閉ざしている貴女の心も溶けるのではないですか」と言ってきた。
しかし当時の習慣として、この程度でウンと言うはずはない。まず拒絶するのがルールだ。紫式部は型通りに返す。
(春にはなりましたが、それを知らないようにこちらの白山の雪は益々積もって、いつ溶けるものか分かりません。私の心も同じですわ)
紫式部(『紫式部集』)
「白嶺」は加賀(石川県)の白山、その名の通り雪深く白い山である。プロポーズしてきた宣孝は父の同僚だから、紫式部より二十歳程年上で、既に先妻が三人はおり、紫式部と同年くらいの息子を頭に数人の子持ちであった。
紫式部にプロポーズしている時にも、近江守の娘に言い寄っていたとの噂もあったが、「二心なし(浮気心はない)」と言ってくるのである。先の紫式部の歌で「溶くべき程のいつとなきかな」と逡巡した理由は、この事情も含むか。
清少納言があざ笑う
越前国にいた紫式部に、宣孝は京よりラブレターをしきりに送ってきた。
変わったラブレターもあった。紙の上に朱色をポタポタと振りかけて「貴女を思う私の涙の色がこれです」と思慕の心の深さを誇張して書いてあった。それに対し紫式部は、
(紅の色を私は疎ましく思います。紅は色あせ移り易いものですから)
紫式部(『紫式部集』)
とやり返すのであった。この歌の後書に「もとより人の娘を得たる人なりけり(この人は以前から他の娘と結婚していたのです)」と、わざわざ「移る心」「疎まるる」の注を付けるのである。
宣孝が吉野の金峯山の御嶽詣を行った時に、周囲の人が「珍しくあやしきこと」と「あさましがりし」ほど、馬鹿に派手な服装で詣でたというエピソードもある。
清少納言はこの一件を、「これはあはれなる事にはあらねど」として、「あはれなるもの」(『枕草子』)にわざわざ書き込むところに、彼女のバサラ宣孝への冷笑と、そのような性格の、しかも年上の男のプロポーズを受け入れる紫式部への嘲笑がうかがわれる。