平安京を離れ、父為時と越前に下る

待望の越前守になった為時は紫式部を伴い、越前国に下る。

同じ頃、筑紫(福岡県)の任地に向かう父親に伴って下る友人は、紫式部に歌を寄越した。

西の海を思ひ遣りつつ月見れば ただに泣かるる頃にもあるかな
(これから向かう遠い西の海に思いを馳せながら、西に傾く月を眺めていますと、もう泣けてならないこの頃です)
筑紫へ行く人の娘(『紫式部集』)

これに対し紫式部は、

西へ行く月のたよりに玉章たまずさの 書き絶えめやは雲の通ひ路
(西に向かう月という好便に託して、貴女への手紙の絶えることがありましょうか。雲の往来する道によってお便りいたしましょう)
紫式部(『紫式部集』)

と詠み送り、慰めるのであった。

紫式部が越前国府のあった武生たけふ(福井県越前市)に下ったのは、二十四歳頃である。愛発あらち山を越えて敦賀に出、北陸道を越前に下った紫式部は、僻地と雪にすっかり辟易した。

土佐光起作「石山寺紫式部書写風景」
土佐光起作「石山寺紫式部書写風景」(画像=Harvard Art Museums/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

平安京が恋しい

雪山を造って人々が登り、「雪が嫌でも、やはり出ていらっしゃって御覧なさい」と言われて、紫式部は、

ふるさとに帰るの山のそれならば 心やゆくとゆきも見てまし
(雪山が、ふるさとの都に帰る時に越えるその名も鹿蒜かえる山であるならば、心も晴れるかと出て行って雪も見ましょうが、そうでないから見たくないわ)
紫式部(『紫式部集』)

と詠むのであった。「帰るの山」に「鹿蒜山」を掛ける。西へ向かう友人は、下向する紫式部をこう歌って慰めた。

行きめぐり誰も都へ鹿蒜山 五幡いつはたと聞く程のはるけさ
(時が来れば誰でも都へ帰れますわ。貴女の行くには、その名も帰る山があるの。でも五幡という所もあるのね。いつはた、本当にいつまた帰ることができるのかしら。遥か先のことね)
筑紫へ下向した人(『紫式部集』)

敦賀を出ると、北陸道は五幡(敦賀市東部)から鹿蒜山(福井県南条郡南越前町の木ノ芽峠)にかかる。五幡も鹿蒜も、都下りの歌人の心を汲んでその名を付けたわけではない。

それにしても、五幡・鹿蒜で「いつはた(いつまた)、帰る」とは掛詞としては、実に良くできているではないか。北陸道の国司にとっては望郷の慣用句だった。

清少納言が「山は」として、「五幡山。鹿蒜山」と並べ、その後に続けて「後瀬山」を配する。後瀬山は福井県小浜市にある山で「後の逢う瀬(後に逢う時)」と掛詞として常用される。「いつはた帰る。後の逢う瀬を(いつまた帰ることができるだろうか。後の逢う瀬を期待して)」(『枕草子』「山は」段)と巧みに並べているのは、上出来だ。