「うちの坊は偉い」
「笑顔がステキなおじいちゃん先生」としてYouTubeで大人気の画家・絵画講師の柴崎春通さんは、終戦直後、千葉県の農村地帯で米農家の長男として生まれている。実家は必ずしも裕福とは言えなったが、親から叱られたことも手を上げられたこともなく、愛情をたっぷり注がれて育ったという。
「昔はよく町内の会合があって子どもも一緒について行ったものですが、父はいつも『うちの坊は偉い』と私の自慢ばかりしていました」
幼稚園のころ、裏山に頭を出したばかりの筍をへし折ってしまい、軍人上がりの役場の職員に思うさま殴られたことがあったという。顔を腫らして帰ってきた柴崎さんを見て、さて、息子自慢の父親はどうしたか。
「父はものすごく怒って、『善悪の判断がつかない子どもに制裁を加えるのは人権に反する』と役場に抗議をして、町長にまで謝罪をさせたそうです。当時は新憲法が公布されて日が浅かったので、人権という言葉がよく叫ばれていたのでしょう。悪いのは筍をへし折った私なのですが、父はそんなふうにどんな時でも、無条件に私の味方をしてくれました」
そんな父親に育てられたことが、いま風に言えば、柴崎さんに確固とした自己肯定感を植え付けることになったのかもしれない。
衝撃を受けたモンドリアンの「木」
幼い頃からものを作るのが好きだった柴崎さんは、小学校時代、友だちが描き損じを欲しがるほど絵が得意だった。描き損じに自分の名前を書いて、先生に提出すればいい成績がもらえるというわけだ。コンクールに出展するため居残りで絵を描かされることも多かったが、「絵画」と本格的に出会ったのは小学校の図書室だった。
「家には白黒の図鑑が一冊しかありませんでしたから、図書室で初めてカラーの画集を開いて、印象派やモンドリアンの『木』なんて絵を見た時には、『なんだこれは。これが絵なのか?』と思うほどの衝撃が、バーンと心の中に入ってきましたね」
その後も、小学校を卒業するまで暇を見つけては足しげく図書室に通い、柴崎さんは何度もその画集を見直した。中学では柔道部に入ったが、高校生になり「やはり絵を描きたい」と思った柴崎さん。休部になっていた美術部に部員を集め、部長として活動。柴崎さんと部員は少ない情報をかき集めては研究し、互いに切磋琢磨する3年間を過ごした。
この試行錯誤の「自己流」が、その後の柴崎さんの人生に大きく影響することになる。