日本はある種の無理ゲー社会

3.向かい風が強すぎる

3つ目は「向かい風の強さ」。われわれはさまざまな逆境を生きているということです。日本は年功序列と少子高齢化の悪魔合体の結果、「権限の大きい年長世代が多く」「権限の小さい若手世代が少ない」という構造になっています。現状に不満を感じ変化を求める側からすると、ある種の無理ゲーが至る所で発生しているわけです。

その結果、「このままではいけない!」とはうっすら誰もが思っているが、「新しい動きを承認する権限がある人たちが古い考え方」というジレンマが至る所で発生してしまっています。日本財団の調査で明らかになっている「日本の若者は世界を変えられると信じていない」というスコアも、この無理ゲー構造が原因の一端なのではないかと、どこか達観している若者たちと日頃触れていて感じます。

この向かい風は実は、かつて社会が、個人同士の間に暗黙のうちに結んだ数々の「古い約束」が正体なのではないかと僕はにらんでいます。

「一杯目はビールってもんだろ」
「若手は二次会までついてきて、イヤでもカラオケ歌うもんだろ」
「女性は仕事より家庭を優先するもんだろ」
「黒人は白人より、社会的に地位が低くて当たり前ってもんだろ」
「儲けのためなら、社員が不幸でも、環境が汚染されても問題ないだろ」

「この社会ではこのことについては、こういうことにしておきましょう」という約束。それが時代の変遷によって機能しなくなり、「古い約束の破棄」をするために、上書きする新たな約束が生まれる。

人類の歴史はこれの繰り返しだとすると、今の時代は、「ここではないどこかに間違いなく行ったほうがいいと多くの人が感じているが、かつての約束がそれを阻み、そのジレンマがさらに“ここではないどこかへ”行きたいという願望を強めている」時代といえるかもしれません。

窓ガラスの上から流れてくる無数の雨粒
写真=iStock.com/NanoStockk
※写真はイメージです

目的にばかり資源を集中投下してきたツケ

4.問いが複雑すぎる

2020年初頭、全世界に広がったCOVID-19は社会の前提をひっくり返しました。ソーシャルディスタンス、マスク、リモート前提でのビジネスなどなど、それまでの社会では良しとされてこなかった慣習や行動を「やむを得ない」という強いロジックで推進していきました。そんなCOVID-19への対応は、人間社会にとって難しい問いでした。

WHO(世界保健機構)シニアアドバイザーの進藤奈邦子さんは、COVID-19の対応は複数の異なる観点や学問領域の知見を越境してマッシュアップして対応していたことを話しています。

たとえば、感染症の専門家の観点だけで対策を出すなら「家から出ない」が一番になりますが、それだけでは経済がダメになってしまい結果的に誰かの生活を瀕死に追い込んでしまうかもしれない。あるいは、移動の制限が人権に抵触するという恐れがあり、精神医学の観点から見ると人の心を蝕む恐れが見えてきます。

まさにCOVID-19は人類社会にとって「あちらが立てばこちらが立たず」の難易度S級の課題だったわけです。実際、WHOでは感染症や病原体、公衆衛生といった医療関連の専門家だけでなく、政策、法律、社会学、行動科学、人権、民俗学、精神医学など、さまざまな専門家を集めて「13人の賢人」という会議体を作って対応したそうです。

現代を生きる僕らが直面する課題は、このように「あちらが立てばこちらが立たず」の関係性ばかり。ハーバード・ケネディー・スクールで長年教鞭をとっていたロナルド・ハイフェッツは、問題を「技術的問題」(technical problems)と「適応課題」(adaptive challenges)の2種類に分類しました。

前者は「1+1=2」のように、誰が解いても解法と答えがある程度、一義的に定まりますが、後者は複数の変数が相互に作用し合い、ともすれば「その問題を解こうとしている本人の存在」すらも変数として作用を及ぼす、関係性の中で生じる課題です。

情報が多くなり、テクノロジーが速くなった今、個人にとっても法人にとっても技術的問題が解かれて減っていく一方で、まさに後者の「適応課題」が増えているといえます。

ただ、思えば昔から人間社会の課題はそのほとんどが「適応課題」だったのかもしれないのに、僕らが「技術的問題」だと思い込んで無理やり解こうとしていた。こうも解釈できるのではないでしょうか。

「売上のためならゴミが出ても仕方なし」「選挙で勝つためなら人数の少ない若者へのウケは後回しでも仕方なし」のように、物事や課題の論点を単一化し、目的に直接関係する変数に資源を集中投下する一方、それ以外の「目的にあまり関係してこない変数」については傍に置いておくというスタンスは、誰しもが多かれ少なかれやってきたことです。

今の時代においても、複雑さと難しさに耐えきれず、極論に走る人も顕在化しています。数秒で、端的に、シンプルに、結論だけを求めるような思考の態度は、ときとして課題そのものへの関心を削ぎます。高度で難しくなる課題を本質的にがんばって解こうという動きと、その反対側に向かう「難しくてよくわからないから、極論でもいいからシンプルに教えて」「何が悪者なのか決めて、それを叩けばOKってことにしない?」という動き。

この2つの正反対の思考が、さまざまな領域で昨今よく使われる「分断」という課題構造の本質の1つだと僕は思います。

エルメスのフランス本社前副社長の齋藤峰明さんの考察に「アメリカでハンバーガー屋さんが多いのは、人種のるつぼゆえに、どんな人でもおいしいと感じる最大公約数が求められるからではないのか」という仮説があって、なるほど多様性が高ければ高いほど選択肢も多様になるのかと思いきや、その逆の「かえって最大公約数に収れんされてしまう」という可能性もあるのだと考えさせられます。