“最底辺”とされた商人の地位を変えたい

「良き商人とはすなわち良き人間のことである」と倉本は言ったが、卓也ほど「公」と「私」を峻別した商人は珍しい。創業者利益をほとんど「私」にせず、ほとんどの財産を教育や環境財団という「公」へと注いだ。日本の近代商業史を見渡したとき、こうした例は少ない。

江戸時代の銀行
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また卓也は、小売業の社会的地位の向上にその人生の大半を尽くしてきた商人でもある。これは戦後のチェーンストア志向企業創業第一世代に共通する認識でもあるが、卓也にはその傾向が強かった。「士農工商はいまだ終わっていない」と常々口にするが、それには四日市時代の次のようなできごとが起因している。

四日市の商工会議所は工業都市であったためか、会議所の全議員55人中、小売業の評議員はたった2人しかいなかった。そこで卓也は商業部会長となると同時に、小売業者から10人を議員にしようと、10人が当選できるだけの委任状を集めて回った。議員選挙で商業部会から立候補する10人が全員当選するとなると、他部会から8人の議員におりてもらうことにある。

「小売業なんて雑魚じゃないか」

「岡田君、小売業なんて雑魚じゃないか」

年配の工業部会担当の副会頭に言われて侮辱されるものの反発し、会頭が他部会を説得して9人まで議員を辞退させた。そして、商業部会も1人立候補を辞退するよう卓也に諭すと、「これだけ会議所を混乱させたのですから、私が降ります」というと、「君は降りるな」と会頭。卓也は会長推薦議員となり、小売業者から10人の議員が誕生することになった。

以来、卓也は士農工商と闘い続けてきた。そのためには小売業の社会的地位を高めなければならない。商業は平和産業であり、平和の中で価値を創造し、社会の豊かさ、生活者の暮らしの豊かさを支える産業でならなければならない。これがイオンを創った男の原動力となった。

卓也は倉本についてかつてこのように語っている。

「私は四日市の商人の家に生まれ、終戦後これからの生涯に何に力を入れようかと悩んでいました。そのとき、倉本長治主幹にお会いする機会があり、商人、小売業とは何か、さらに商人である前に人間としてどう生きるべきかなど、数多くのことを学びました。(中略)

近年、企業の倫理観の欠如が問題に上がっています。これは、今日の日本の繁栄を築いた基本理念が忘れられているためであり、あらためて倉本主幹の教えを学ぶことはたいへん有意義なことだと思います」(倉本初夫著『倉本長治 昭和の石田梅岩と言われた男』推薦文より)

店は客のためにある――。卓也が倉本から学んだ精神がその商いの根本にある。