卓也がチラシに記した「焦土に開く」の意味

卓也はいまから260年以上前に創業した岡田屋という老舗呉服店の7代目として生まれる。大学在学中に軍隊入隊を余儀なくされ、20歳のときに茨城県鹿島で終戦を迎え、故郷の三重県四日市へと帰ってきた。

復学すると同時に、姉の千鶴子たちと一緒になって家業を復興しようと、学生のまま社長に就任した。戦争で店舗は焼けてしまったが、先祖代々が守ってきた「岡田屋」という暖簾、つまり無形の信用だけは焼け落ちることはなかった。

卓也は先祖代々ずっと商売をしてきた店の跡地に、バラックのような40坪の店をつくった。1945年の9月から、資材を集めるだけでも半年かかったという。従業員5人からの再出発だった。

学生社長だった卓也は、東京の大学に夜行列車で行き、また夜行列車で帰ってきては、週の半分以上を岡田屋で励んだ。そして、営業再開を知らせるチラシに卓也はこう記した。

焦土に開く――。

イオンが「平和産業」を掲げた原点

日中戦争以降、暮らしは統制経済下に置かれ、国民の生活は一貫して統制経済下にあった。商人は自由にものを売ることができなかったし、チラシをまくこともできなかった。それゆえ、チラシを見た多くの客が岡田屋を訪れ、中には「やっと戦争が終わったんですね」というなり、涙を流す人もいた。

終戦の事実は何度もラジオで放送され、新聞でも報道されていた。しかし、それでも庶民にとって戦争終結の実感は薄かった。しかし、卓也がまいた一枚のチラシが、本当に平和が戻ったことを告げたのだ。

その日以来、卓也は「小売業は平和産業である」と確信。それがイオンを創った男の出発点となった。ここから9歳離れた姉、千鶴子との二人三脚が始まった。