※本稿は、笹井清範『店は客のためにあり 店員とともに栄え 店主とともに滅びる 倉本長治の商人学』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
「イオンを創った姉弟」は40坪の呉服屋から始まった
その人は日本の流通業界の豹のような存在といってよい――。
「日本商業の父」といわれ、小売流通現代史に名を刻む商人たちを育てた倉本長治に、こう言わしめた商人がいる。倉本はその著『此の人と店』(1975年・商業界刊)で、イオン名誉会長相談役(当時・ジャスコ代表取締役社長)を「若き俊英」と表現し、次のような思い出を披露している。
戦争が終わり3年ほど過ぎたころ、倉本はある知人の紹介で三重県四日市の岡田屋呉服店を訪ね、千鶴子、卓也という姉弟と出会う。祖父の店を売り、戦後に開通したばかりの新道沿いに40坪ほどの店を建てて間もないころだったが、さらにそれを2倍の規模に拡張工事中であったという。
「商品供給も十分ではないのに、それほど大きな店舗が必要だろうか」と、倉本は増築中の足場を渡りながら姉弟に訊ねた。すると、「これからはどんどん商品が出回るし、生活用品やいまや何でも不足しているのですから、店は大きければ大きいだけ有利であり、お客様にも便利ではありませんか」と卓也が勇ましく答えたという。
倉本は「いかにも自信に満ちていて、見るからに名人が鍛え上げた短剣に接するような感じを与える。末頼もしい青年だった」と述懐している。
名物経営者を多数輩出した「商人の道場」
その後の1951年、倉本が商人の学びの場として「商業界ゼミナール」を開催するようになると、岡田姉弟も参加。以来、生涯にわたって倉本はこの姉弟を導き、姉弟は倉本を商売の師として慕い続ける関係となる。
後に商業界ゼミナールは「商人の道場」といわれ、最盛期には3000人超の商人が全国から集った。そこでは若き日のダイエーの中内功、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊、ニチイの西端行雄、長崎屋の岩田孝八、セゾングループの堤清二、ユニーの西川俊男らが席を並べて学んでいた。岡田卓也が後に合併を果たすフタギの二木――と出会い、親交を深めていくのもまた商業界ゼミナールであった。
倉本をして「豹」と言わしめた岡田卓也とは、商人としてどのように出発したのだろうか。それを如実に物語るエピソードが『岡田卓也の十章』(2007年・商業界刊)にある。卓也20歳のときのことである。