今や正月の風物詩となった箱根駅伝も、1987年に日本テレビが生中継を始めるまでは「関東のローカル駅伝」に過ぎなかった。なぜ箱根駅伝は人気になったのか。スポーツライターの生島淳さんの著書『箱根駅伝に魅せられて』(KADOKAWA)より一部を紹介しよう――。
第99回東京箱根間往復大学駅伝競走
第99回東京箱根間往復大学駅伝競走(写真=Dick Thomas Johnson/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons

箱根駅伝は「ラジオで聴くもの」だった

昭和50年代の日本のお正月は静かなものだった。お店はすべてお休み。宮城県の気仙沼なんて、シーンとしていたものだ。日本全国、いつから元日でもお店を開けるようになったのだろう? 静かなお正月が懐かしかったりする。

わが家は食堂で、大晦日までお店をやっていたし、滅多になかったけれど、望まれれば元日にも出前に行ったりしていた。自分も正月からラグビーや駅伝の取材に行くのが苦だと思わないのは、母親の背中を見ていたからかな、と感じる。好きな仕事、求められている仕事であれば、お盆もお正月も関係ない。

そんな環境で育ち、私は昭和52(1977)年のお正月から箱根駅伝を聴き始めた。

当時も東京の民放局は中継をしていたようだが、ラジオの中波(といっても、もう若い人には通じない)は電波の性質として昼間は遠くに届かず、宮城では夜にならないと東京の放送局は聴けなかったから、もっぱらNHK第一で聴くのが毎年の楽しみになった。

早稲田大学の瀬古利彦

小学校低学年の時から、私はすでに東京六大学野球、ラグビーの「耽溺の沼」に足を踏み入れていたが、1974年に法政大学に進んだ次兄が「今度、早稲田に瀬古というすごい選手が入ったんだ」と教えてくれた。一浪して1976年に早稲田に入った瀬古さんは、大学1年の箱根駅伝で一時は順位を大きく上げたが、後半に失速して順位を落とした。それでも「瀬古」という響きがとても良くて、私の記憶のなかに瀬古利彦という名前が刻まれたのである。

のちに、瀬古さんに大学1年生の時の話を聞いたことがある。

「あの時は苦しかったよ。最初はいい調子で入れたんだけど、2区が25.2kmもある時で、最後の権太坂で足が止まってしまったんです」

瀬古さんが、解説席で2区の走りについて、序盤はわりと慎重に入るランナーを好むのは、自分の経験が影響しているのかなとも感じた。それは渡辺康幸監督も同じだ。

瀬古さんは、このあとの2月に京都マラソンに出場して2時間26分00秒で10位に入り、新人賞を獲得している。

「箱根駅伝も苦しかった。京都マラソンはもっと苦しかった。もう二度とあんな苦しい思いはしたくない。それでいっぱい練習しなくちゃいけなかったんだ」

瀬古さんはそう振り返っている。そして1977年の福岡国際マラソンで5位に入り、日本中に名を知らしめた。エンジに「W」のユニフォームがなんともカッコ良かった。

瀬古さんは年が明けて箱根駅伝の2区を走っている。この時は法政の成田道彦(のちに法政の監督になる)に区間賞を譲った。なんだか悔しかったのを覚えている。それでも瀬古さんは気にしていなかった。