箱根は「ついでに走るもの」だった

私がインタビューした時に「箱根? あれはついでに走ってたからね」というひと言に度肝を抜かれた。1980年はモスクワ・オリンピックの代表に内定してから箱根に登場した。この年、NHKはラジオばかりではなく、新春列島中継的なもので2区から3区の映像を流した。これは田舎に住んでいた私には画期的なことで、食い入るように見た。瀬古さんは当時のことをこう振り返る。

「日テレさんもまだ中継していなかったし、箱根はそこまで大きな大会じゃなかった。もしも、私が箱根でケガでもしたら、たいへんな騒ぎになっていたと思うよ。オリンピックの方が大切なのに、大学のレースでケガをしてしまうのかって。それくらい、大会の価値がいまとは違いましたよ」

当時は、NHKラジオも完全中継ではなかった。1区から2区は生中継だったが、3区以降は毎時0分のニュースのあとに5分ほどの速報があり、通過順位をレポートするだけだった。小学生だった私は、必死にノートに順位を書き留めながら、ラジオから伝わってくる箱根駅伝の風景に想像をめぐらせた。

ラジオからでも聴き取れる沿道のざわめき、早稲田・中村清監督の早稲田大学校歌。

いつか、東京で暮らせたらな。そう思っていた。

アンティークなラジオ
写真=iStock.com/bocco
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ラジオだからこそ膨らむ「箱根駅伝」の情景

映像ではリアルすぎて、ここまで妄想は広がらなかったかもしれない。音だけだったからこそ、小学生の私は「箱根駅伝」への妄想を膨らませることが出来たのだ。

振り返ってみると、小学生の時からラジオを聴きつつ、区間ごとの通過順位をノートにつけていたのだから、いまの仕事の内容とやっていることは変わっていない。私は小学生の時からまったく同じことをしているだけだ。

1986年、私は受験生だったが、それでも箱根駅伝を聴いていた。この年は早稲田の3連覇がかかっていた年で、金哲彦さんが4年生だった。早稲田は往路優勝したが、往路で6分32秒差もつけていた順天堂大に10区で逆転された。日本テレビの中継が1年早く始まっていたとしたら、ものすごいレースが見られたはずだが、ラジオで順天堂が早稲田に追いつく様子は、とても聴いていられなかった。悔しい思いをしつつ、私は「赤本」に向かったような思い出がある。金さんとはのちに、2017年のロンドン世界陸上の時に、一緒にロンドン市街をジョギングさせてもらった。

ラジオから聞こえる箱根駅伝に思いを馳せたのは私だけではない。大八木監督もそのひとりだ。「私は福島でラジオを聴いてました。瀬古さんは福岡国際を走ってから箱根の2区を走ってたわけで、あれが普通のことだと思ってました。そしたら、自分が指導者の立場になってみたら、あんなことは瀬古さんしか出来ないことだと分かりましたよ。瀬古さんは、とんでもない人だった」