マインド・コントロールの恐ろしさ

どういうことかというと、信者は、統一教会の活動を続けなければ自分は地獄に堕ち、親も死んで地獄に堕ち、先祖もみんな地獄に堕ちて苦しんで二度と這い上がることはできない、と教え込まれているのです。

自分は磔になったイエスの心をもって捨て石となり、「氏族メシア」として親も含めた氏族全員を救わなければならないと信じ込まされている。だから、親に会いたくないとか親を否定するのではなく、親を救うために、親から隠れて活動を継続する。親も子に会えずに苦しむが、子も苦しみながら姿を隠す。なんとも非人道的で不条理な話だと思いますが、これが現実です。

統一教会の例を見ていると、もともとが優しく親思いで、生真面目で、悪いことなど微塵もしそうにない、ようするにとても誉められる人格を持っている子どもほど、統一教会の活動に熱中してしまうことがよくわかります。

つねに心底、人のため親のためにやっているので、弱者からなけなしのおカネをだましとっても平気です。カネを持つこと自体が財の因縁にとらわれているから、それを解いてあげればその人の功徳になり地獄に堕ちないですむという発想だからです。オウム真理教のポアと同じです。

窓辺で聖書の上に手を置いて祈る女性
写真=iStock.com/Halfpoint
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本人は、「自分はこの人をだましておカネを取る」ということはわかっていますが、罪悪感がほとんどありません。罪悪感を持たないようにマインド・コントロールされています。自立した主体的な考えを持たず、教祖と教義に依存するよう仕向けられています。

信仰というのは本来、依存的なものではなく主体的なものです。どの教会でもお寺でも「依存せずに自立しなさい」というはずです。ところがカルトのやっていることは、まったく逆。信者から主体性を奪い、依存しなければ生きていけない多くの人間を、日々組織的に生み出すのがカルトだ、ともいえます。

弱い者から切り捨てる…カルトは本当の宗教なのか

統一教会が桜田淳子さんを広告塔として利用できると考えて特別扱いした戦略的、合理的な思考は、まったく逆の方向にも向いています。つまり、カルトは、信者が使い物にならなくなると、情け容赦なくあっさり切り捨ててしまいます。

ある宗派が、本当に人助けのために信仰を広めているのであれば、あまりおカネのない人からおカネをむしり取るようなことはしないでしょう。そのような宗派は、ちゃんとした宗教に育っていくだろうと思います。

ところが統一教会のようなカルトは違います。比較的おカネのない若い人からも、おカネを取ります。もともと持っている額が少なく、ある程度以上は取れませんから、今度は街に送り出しておカネを集めさせます。

比較的おカネのある高齢の人からは、もっとおカネを取ります。どんどんおカネを取ってもう取れないとなると、伝道の対象者からははずし、捨ててしまいます。高齢者は労働力としての価値がないからです。

オウム真理教も、地下鉄サリン事件のあと、高齢の出家信者を追い出していきました。一生面倒を見るからといって、全財産を貢がせて出家させたおじいちゃんおばあちゃんたちを、搾れるだけ搾ったらもう用済みとばかり捨てました。

つまりは、つねにカルトの教祖や教団が第一で、利他ではなく私利私欲で動いているのです。伝統的な一般の宗教と、この点がまったく異なります。