「認知機能の低下」が懸念されたら認知症
では、具体的にどのような症状を認知症と呼ぶのだろうか。
あらためて調べてみると、その代表的な診断基準には、世界保健機関が定めたもの(ICD―10)やアメリカ国立老化研究所のNIA―AA基準、アメリカ精神医学会のマニュアル(DSM―5)の3種類がある。いずれも記憶力や認知能力などの低下を基準にしているのだが、その低下の「証拠」を具体的に定めているのがDSM―5だ。
(『認知症疾患診療ガイドライン 2017』日本神経学会監修 医学書院 2017年 以下同)
つまり私の「懸念」も証拠となる。私が父の「認知機能の低下」を心配すると、父は認知症になる。「父は認知症なんでしょうか?」と訊くこと自体が認知症の証拠になっていたのだ。
ではその「認知機能」とは何かというと、「認知領域(複雑性注意、遂行機能、学習および記憶、言語、知覚―運動、社会的認知)」における認知らしい。何やら「領域」と「機能」が錯綜しており、認知自体は「認知」としか認知されていないようなのだが、私が驚かされたのは次の診断基準だ。
父の認知症は母の急逝で露わになった
認知症とは自立できない状態であるということなのだ。父は自分の銀行口座すら知らないし、薬の管理もできない。つまり症状としては間違いなく認知症に当てはまる。しかし父の場合は認知機能が低下したのではなく、もともとできない。身の回りのことはすべて母がやっていたので、最初から自立していないのである。
「認知欠損が自立を阻害」しているのではなく、もともと自立しようとしていないわけで、アメリカの基準からすると、そのこと自体が重大な「認知欠損」なのだ。
認知症の診断基準は認知欠損によって「日常生活が阻害される」こと。父の認知欠損を日常としているなら認知症にはならないわけで「暮らしに不都合がでるようになって、はじめて認知症とよぶ」(前出『認知症とは何か』)のである。
以前から父は同じ話を何度も繰り返していた。最近の出来事も丸ごと忘れており、忘れたことも忘れているようで私は「大丈夫なのか?」と心配していたのだが、母は「大丈夫よ」の一点張りだった。つまり不都合のないように都合をつけて生活していた。私たち息子夫婦の生活を阻害せず、不都合をかけまいと頑張っていたのだ。
ところが母は急性大動脈解離で突然この世を去った。87歳だった父は取り残され、すべてが不都合になった。母の不在で露わになった認知症というべきか。本人というより、本人が置かれた状況を認知症と呼ぶようで、そうなると私も認知症の構成要件を担っているのだろうか。