認知症患者によくみられる「取り繕い反応」

答えられない時に言い訳やつくり話をすること。同書によると、食事の内容について次のように答えるのも「取り繕い反応」とされる。

「いろいろでした、美味しかったです」
「朝の残り物で済ませた」
「自分は年金暮らしなのでたいした食事はしていません」
「自分は食事に関心がないので気にしていません」

通常の返答のように思えるが、患者の中には「自分は、毎日、食事内容を帳面に書いているので覚える必要はありません。必要ないことは頭に入れないようにしているのです」と答えた女性(76歳)もいたという。「ではその帳面を見せて下さい」とお願いすると、「昨日の帳面は捨ててしまったのでわからないかも……」と答え、「捨ててしまうのですか」と問うと「いや、あれは帳面ではなく単なるメモ用紙ですので」と言い訳したらしい。

この症例は「自分の答えが矛盾していることを認識できていない」ので認知症とされているのだが、単なる言い間違いの可能性もあり、果たしてこれらは認知の障害といえるのだろうか。

すべての人は認知症ではないだろうか

例えば、私の知人の母親は調査員に朝食の内容を訊かれて、こう答えた。

高橋秀実『おやじはニーチェ』(新潮社)
髙橋秀実『おやじはニーチェ』(新潮社)

「そんなこと、言えませんわ」

認知症というより慎ましい回答というべきだろう。大体、見ず知らずの人に食事の内容を言う必要はないし、言うにしても体裁を取り繕うのは当然である。いずれにしても食事の内容を訊かれているという状況を認知していることは間違いないし、認知しているからこそ取り繕うのではないだろうか。

そもそも言葉とはその場をしのいだり、取り繕うためのもの。「その場限りの適当な言い訳や作話的な内容を述べる」ためにあるのではないだろうか。私たちは現実を言葉の綾で取り繕う。いや、取り繕ってできた綾を「現実」と呼ぶのではないだろうか。そういえばマルティン・ハイデガーもこう言っていた。

言葉は存在の家です。その住まいに人間が住まうのです。
(ハイデガー著『ヒューマニズムについて』桑木務訳 角川文庫 昭和33年)

人は言葉という住まいに住んでいる。言葉で取り繕われた家に住んでいるわけで、これを認知症と呼ぶなら、すべての人は認知症ではないだろうか。

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