認知症には「取り繕い反応」という典型的な症状がある。忘れていることを覚えているかのように振る舞うものだが、認知症の父・昭二さんを介護したノンフィクション作家・髙橋秀実さんは「親父の言葉を吟味してみると、これはひょっとすると哲学の問題ではないかと思った」という。なぜ哲学なのか。新著『おやじはニーチェ』(新潮社)を出した髙橋さんに聞いた――。(文・聞き手=ノンフィクション作家・稲泉連)
明るい陽射しが差し込む病室
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母の死で顕在化した父親の「認知症」

髙橋秀実さんの新作『おやじはニーチェ』は、父親を介護する日々をちょっと意表を突く視点から描いた一冊だ。

髙橋秀実さん(写真提供=新潮社)
髙橋秀実さん(写真提供=新潮社)

テーマは「哲学」――。認知症になった父・昭二さんとの日常や会話が、アリストテレスや表題にあるニーチェ、ウィトゲンシュタインやハイデガーなどの言葉から読み解かれていくのである。

「私の父が『認知症』だと認定されたのは、母が亡くなった直後。そのとき父は87歳でした」と髙橋さんは振り返る。

それまで妻と2人暮らしだった昭二さんは、普段の生活は全て妻任せで、もともと家のことは「自分では何もできない人」だったという。

「認知症とは本来、ひとつの病名ではなく、記憶障害や見当識障害、思考障害などの症状の総称です。母と暮らしていたとき、父のそれらの症状は生活を支える母の存在によって見えませんでした。母が亡くなったことで、1人では生きていけない父の『認知症』が顕在化したわけです。これを私は『家父長制型認知症』と呼んでいるんです」

今日は何日だっけ?

そう聞くと昭二さんは倉庫に古新聞を取りに行き、いちばん上に置いてある新聞を手に取って「これか?」と言う。

「100引く7は?」と問えば、「じかに引いちゃっていいのか?」と逆に聞かれる。

いつもの取材のように父親の言葉をメモしてみる

そうして始まった介護の日々に髙橋さんは困り果てていくのだが、その体験を書くことになったのは、ある日、妻からこう言われたことがきっかけだったという。

「メモしてないの?」

「そうか、と思いました。メモすればいいのかと。30年近くにわたって人の話を聞く仕事をしてきたわけですから。それで親父の言っていることを、いつもの取材のようにメモし始めてみると、不思議と腹が立たなくなったんです。それまではイライラすることも多かったのですが、親父の言っていることを一字一句正確に書き起こしてみると、それなりに一理あるような気がしてきたんですね」

そんななか、髙橋さんは「これは哲学の問題なのではないか」と思うようになった。

「例えば、認知症の見当識のテストにあるように、親父に『ここはどこ?』と聞くと、『どこ?』と聞き返してくるんです。『ここ』と答えると、『ここってどこだ?』と逆に問われたりして。私が質問した『ここ』は特定の場所ですが、父が言う『ここ』は概念としての『ここ』。つまり親父は概念の所在について言及しているわけです。

認知症になると語彙ごいが減少すると言われているので、それを確かめるために何かを手に持って『これは何?』と質問したんですが、親父はなぜか『ほう~』とか『へぇ~』とか感心するんです。一種のごまかし、『取り繕い反応』とも言えるんですが、よくよく考えてみると、私も妻に『これは何?』と聞かれることがあります。靴下を脱ぎ捨てたまま放置したりして。この場合、『靴下』と答えるべきではなく、『どうもすみません』と答えるのが正解ですよね。

つまり『これは何?』という問いは名前を聞いているとは限らないんです。母の遺影を見せて『これは何?』と聞いても、それは『写真』でもあるし、『写真立て』でもある。正解は『母』のようですが、『母』そのものじゃないわけで。そういえばアリストテレスも『形而上学』の中で『「これは何?」というのは難問だ』と言っていたな、と思い出しまして」