宗教的なこころを尊重してきた日本人だが、変わりつつある
このように日本人がカルト教団や政治と宗教の関係に海外諸国と比較しても比較的寛容である背景としては何が考えられるだろうか?
実は、カルト教団への許容度と政治と宗教の関係への寛容さには、相互に関連があることが、上に掲げた2つのデータから見えてくる。
主要先進国の中で米国が両方とももっとも宗教団体の自由を認めているだけでなく、最も許容度の高い国が、南アフリカ、イスラエルの2カ国である点でも共通している。だとすると、カルト教団による弊害や政治と宗教の間での特定の事件や背景があってそうなっているというより、やはり各国民の宗教観そのもの、あるいは宗教や宗教団体に対する見方が影響していると見ざるを得ない。
米国では、国は言論の自由や宗教活動の自由を保障すべきだと考え方があるのであろうし、イスラエルはそもそもの建国の理念がユダヤ教による国造りという特殊性が影響していよう。南アフリカについては脱アパルトヘイトの線に沿って宗教の自由を憲法が保障している点と関係していると思われるが詳細不明。
日本については、「教義宗教への不信」、およびそれとは対照的な「宗教心そのものへの尊重」という国民性が影響しているのではないかと私は考えている。一見、訳が分からない宗教でも、宗教的な精神や行為そのものはあえて否定はしないという国民性がそうした寛容性の背景にあるのではないだろうか。
そう考える根拠となっている統計データを最後に紹介しよう。
統計数理研究所が行った国際比較調査(欧州)(アジア・太平洋)の中では、宗教心に関し2つの設問、すなわち、「あなたは、何か信仰とか信心とかを持っていますか?」と「それでは、いままでの宗教にはかかわりなく、『宗教的な心』というものを、大切だと思いますか、それとも大切だとは思いませんか?」という2つの設問を行っている。
この2設問への回答を散布図で見てみよう(図表3参照)。X軸に「信仰や信心をもっている」の比率(すなわち無宗教の者が多いかどうかの比率)、Y軸に「宗教的なこころは大切」の比率をとって各国の分布を見てみると、両者は、ほぼパラレルだということが分かる。
無宗教の者が少ないイタリアやインドのような国では宗教心も大切だと考えているし、逆に、中国の北京や上海、あるいは欧米の中ではオーストラリアやオランダのような無宗教の者が多い国や地域では、宗教心もそれほど大切とは思われていない。
これが宗教に関する考え方の世界標準のフレームワークである。ところが、日本人はかなり変わっている。無宗教の者が多い割には、宗教心を大切にする者がやけに多いのである。
これを、信仰や信心とまではいえない山川草木や神社などに対するアニミズム的な宗教心が強いと考えるか、あるいは、キリスト教、イスラム教、仏教といった教義宗教を嫌う気質があると考えるかは、見方次第であろう。
日本の歴史をさかのぼり、外来宗教を在来宗教と調和させた「神仏混淆」の考え方が古来より自然に受け入れられてきたことを振り返ると日本人の教義へのこだわりのなさは生来のものといえる。統計数理研究所の所長としてこれらの設問を含む一連の調査を企画実施した統計学者の林知己夫は、こうした考え方が影響してキリスト教など自分たちと違うものを排斥する教義をもつ排他的な宗教は日本では広まらないと考えた(『数字からみた日本人のこころ』徳間書店林、1995年)。
実は、林知己夫がこうした考えに至ったのは統計数理研究所が5年毎に継続して行っている「日本人の国民性調査」でこれらの設問に対して無宗教なのに宗教心を大切にするという非常に安定した回答が毎回得られることに気がついたからである。図表3に掲げた国際比較はこれを諸外国と比べて確認するために行われたものであり、案の定、日本人の特殊な宗教観が明らかになったのである。
ところが、2018年に行われた「日本人の国民性調査」の調査結果が最近公表されたが、これを見ると、無宗教である点は不変だったが、宗教心を大切にする回答は大きく低下したことが明らかとなった。この結果、図表3でも日本の位置は海外諸国の傾向範囲に近づいた。やっと日本も「普通の国」になってきたとも言えるのである。
基本的には、日本人の国民性自体、欧米化してきている表れであろうが、日本でもカルト的な宗教集団の弊害が明らかになるにつれて「宗教的なこころを大切」とばかりも言ってられないという意識変化が生じているという側面もあろう。だとすると、今後は、日本人も、カルト教団の活動や政治と宗教の関係について厳しい見方をするように変わっていく可能性がある。今回の安倍元首相の銃殺事件をめぐる騒動は、そうした考え方の転換のきっかけとなるとも予想されるのである。