母が亡くなり、父を引き取ることに

毎週末、父の親族が全員集まる宴会がありました。そこでも母と私だけはずっと台所の隅にいて、料理を出したり、片付けものをしたりしていました。父からは、労いの言葉ひとつかけられたことはありません。父も親戚もそれが当たり前だと思っていたし、母も父に何も言い返せなかったんです。

僧侶になる前、私がまだアナウンサーとして働いていた2015年のある日のこと、唯一頼りにしていた母が突然亡くなりました。私は、両親とは別の場所で暮らしていたのですが、母が亡くなった家に父をひとりで置いておくわけにもいかず、ウチに引き取ることにしたんです。父からは「悪いね。世話になるよ」といった言葉はありませんでした。

父の食事のために帰宅し、出張先へとんぼ返りの日々

父との生活が始まりました。私は出張の多い仕事だったのですが、父は買い物さえしたことがない人。仙台や名古屋ぐらいの距離なら日帰りで群馬に戻り、買い物をして、17時半の夕食に間に合わせていました。父は19時ごろには寝てしまうので、それから翌日の朝ごはんと昼ごはんの用意をして、最終の新幹線に飛び乗って出張先に舞い戻り、翌日の仕事に備えました。

大変な思いをしてごはんを作っても、父からは「いただきます」「ごちそうさま」の一言もありません。当たり前のように出てきたものを食べ、黙ってテレビを見ている。気に入らないと自分の犬にやってしまう。

そんな父ですが、家の外では町内会の仕事を何年もやるような面倒見のいい一面もありました。妹との関係性も良好で、人付き合いもいいんです。ですから、私と父の関係性がこんなに冷え切ったものだと思う人は、周りにはいないでしょう。

父は父で、どう私と接していいかわからなかったのでしょうし、私も子供の頃から父の前に出ると緊張状態にありましたので、「おとうさん。買い物には自分で行ってもらえるかな?」と、気安くお願いしたりすることはできません。そのうち無理がたたり、私が倒れてしまったんです。

それをきっかけに、父と私は離れて暮らすことになりました。朝ごはんは、近くに住んでいる叔母が持って行って、夜は私と妹が交代で食事を用意します。

その頃、私はプライべートで悩みを抱えており、天台宗の正式な僧侶になるために、比叡山の行院ぎょういんという場所で修行を始めました。