「池田屋事件」で月給3倍
新選組の羽振りが一番よかったのは、結成翌年の元治元年(1864年)頃でした。6月に起こった「池田屋事件」での活躍に対し、幕府や朝廷から多額の褒賞金が与えられたからです。
池田屋事件とは、京都の旅館・池田屋で密談中だった倒幕派の武士たちを新選組が襲撃、一挙に討ち取ってしまった事件のことです。
近藤や土方といった幹部には300両、隊士たちには200両もの褒賞金・慰労金が、幕府や朝廷から与えられました。現代の貨幣価値で3000万と2000万にあたりますから、相当な収入です。
新選組の「組頭」(=中間管理職)だった永倉新八の証言によると、永倉のような組頭で30両。平隊士が10両、つまり役職ナシの隊士でも月給100万円が保証されていたらしいのです。
この当時の局長・近藤勇は毎月50両(=月給500万円)、副長の土方も40両(=月給400万円)の高給取りだったと知られています。
しかし、全盛期からわずか2年後の慶応2年(1866年)、おそらくはスポンサーの減少により、新選組の給与は確実に目減りしていました。
組頭で10両(=100万円)、平隊士で2両(=20万円)という数字を記した資料が、新選組から出資を求められた豪商・三井家に残されています(『新選組金談一件』)。
近藤や土方の給与については判然としないものの、おそらく組頭と同様、最盛期の3分の1程度になっていたのではないでしょうか。
ただ、収入と反比例するように、新選組への幕府からの評価は上がりつつありました。隊士たちの身分を正式な幕臣とすると決定されたのが、慶応3年(1867年)6月10日。
給料は目減り気味でも、農民出身の近藤や土方にとって、「武士になる夢」が名実ともに叶ったのは喜びでした。
新選組の斜陽期でも評価が上昇し50万石の大名へ
慶応4年(1868年)1月の「鳥羽・伏見の戦い」において、旧幕軍の総大将・徳川慶喜は味方を見限るような形で戦場を去り、わずかな供だけを連れ、江戸に逃げ戻ってしまいます。
戦場に取り残された新選組の面々も1月10日、旧幕方の軍艦で江戸に帰還しますが、この時の隊士数はわずか40名ほどに減っていました。最盛期には200名を超えた新選組も、斜陽期を迎えていたのです。
一方、近藤・土方に対する江戸城上層部の評価は上昇するばかりでした。老中から、逃走兵が新政府側に寝返らないように甲府で管理しろ、という任務を課せられる代わりに、「成功の暁には、幕府の直轄地だった甲府100万石のうち半分を差しあげる。
君を50万石の領地を持つ大名にしてあげよう(当時の50万石=500億円)」などと持ちかけられたのです。
幕府は瓦解、徳川慶喜は将軍位を退き、謹慎生活を強いられていた当時、近藤にとっては暗闇に差し込んだ一筋の光明でした。50万石の大名とは、途方もない出世です。近藤勇は喜びのあまり、冷静さを失ってしまいました。
将来の大名らしく駕籠に揺られながら、近藤が江戸を出発したのが慶応4年(1868年)3月はじめのこと。土方の故郷にして、新選組の生まれ故郷ともいえる日野に立ち寄った近藤は、彼が昔、剣を教えた近所の若者たちに囲まれます。
「先生、先生」とおだてられ、嬉しくなって飲めない酒をあおるなど、彼にとっては幸せな時間が過ぎていきました。