※本稿は、大谷弘至『楽しい孤独 小林一茶はなぜ辞世の句を詠まなかったのか』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
「愛娘さと」を2歳のときに感染症で亡くした
1819年(文政2年)6月、江戸後期の俳人・小林一茶は、ウイルス感染症で娘の「さと」を亡くしています。さとは、数えでまだ2歳でした。
当時蔓延していた天然痘に罹ってしまうと20パーセントから50パーセントの確率で亡くなります。天然痘は感染率も死亡率も高くとても恐れられた感染症でした。
1796年にイギリスの医学者エドワード・ジェンナーが世界で初めてワクチン(牛痘法)を開発したことによって、この感染症は根絶に向かいますが、牛痘法が日本に伝えられるのは、さとが亡くなって30年経った1849年(嘉永2年)のことでした。長崎・出島の蘭館医オットー・モーニッケが種痘に成功すると、牛痘ワクチンは日本でも広まりはじめたのです。
露の世は露の世ながらさりながら――一茶
この世は、草木の葉の上に結ぶ露のようにはかないものであることは重々承知しているけれども、そうであるとはいえ、つらいことだと一茶は詠みます。
さとは年老いて授かった可愛い一人娘でした。一茶にはその死はおよそ受け入れられるものではありません。
3歳で実母を失い、15歳で根無し草に
一茶はいつも孤独でした。3歳で実母を失い、代わりにやってきた継母により、15歳で信州柏原(現・長野県上水内郡信濃町)の生家を追われ、江戸で奉公することになります。当時、「家」とは、個人にとって社会的存在としての絶対的な拠り所でした。その家を追われるということは、何者でもなくなることに等しく、一茶は根無し草のように生きることになったのです。
そんな一茶も52歳という老齢にしてようやく妻や子どもと一緒に暮らすことになりました。しかし、その幸せもつかのま、あいつぐ妻子との死別によりふたたび独りぼっちになります。
一茶の孤独は現代人であるわれわれのそれと似ているかもしれません。本書ではそれをみていきますが、一茶が抱えていた孤独は、いま、わたしたちが抱えることになった孤独であるように思えるのです。
一茶は、平均寿命(出生時の平均余命)が36歳だった時代に、65歳まで生きました。2歳で亡くなったさとのように、当時は乳幼児の死亡率が高かったことから平均寿命が短かったこともありますが、いまの年齢に置き換えれば、90歳以上の長寿を全うしたと言えるのかもしれません。
ひるがえって現代の日本は、男性の平均寿命が81.64歳、女性が87.74歳(2020年時点)、人生百年時代となる超高齢社会に突入しています。さらには最新のゲノム医療など医学の発達によって、人類は、秦の始皇帝や歴史上の絶対権力者たちが欲した「不老」を近い将来手に入れるとまで言われています。
しかし寿命が延びることで、わたしたちは、昔より幸せな、よりよい人生を送っていると言えるのでしょうか。