人生が延びた分だけ、不安と心配事も増えた

作家の有吉佐和子さんが小説『恍惚こうこつの人』を発表して、認知症(当時は痴呆症とよばれていた)になっていく一家のあるじと、その介護に翻弄ほんろうされる家族を描いたのは、1972年(昭和47年)のことでした。この本はベストセラーとなり、認知症患者の老後や福祉の貧困を、初めて社会問題の俎上そじょうに載せましたが、じつは、この前年、日本人の平均寿命が男女ともに70歳を超えたのです。

高度経済成長を遂げた日本は豊かになり医療環境もよくなって、世界一の長寿国へと寿命が延びていくとともに、認知症患者も増え、いまや日本の認知症有病率は世界一となっています。

人は、長生きすればするほど病や苦しみを背負うことになります。それだけではありません。かけがえのない人を亡くす、両親、兄弟姉妹、夫や妻との死別、あるいは子どもに先立たれることもあるかもしれません。愛した人たちが愛し合った記憶とともに、ひとり、またひとりと世を去っていきます。そして最後はみんなひとりになります。

お線香を持つ女性の手
写真=iStock.com/Yuuji
※写真はイメージです

人生が延びた分だけ、思いも寄らない不安や心配事も増えてきました。最近では、ひとり暮らしの末の孤独死のみならず、たとえ親子で同居していても、「8050」問題といって要介護の80代の親と、引きこもりのまま成人に達し50代になった子どもが「共倒れ」する事例もでてきました。

「親のない雀」は一茶自身

ここで、一茶のよく知られた句を並べてみます。

われと来て遊べや親のないすずめ

痩蛙やせがへるまけるな一茶これあり

やれ打つな蠅が手をすり足をする

ユーモラスで童心を詠んだような一茶の句は、俳句に長じた人々から「子ども向けであり、深みがない」と酷評されますが、掲句はまさにその代表作です。はたして、これらの句はこの評価どおりに読まれるべきものなのでしょうか。

たとえば、一句目。「親のない雀」とは、一茶自身の姿にほかなりません。一茶は3歳で母・くにを亡くしています。その後やってきた継母のさつと折り合いが悪く、異母弟・仙六せんろくが生まれてからは、いっそう険悪なものとなりました。仙六がむずかると、一茶のせいだと親に疑われつえ折檻せっかんされたといいます。

じつの母を失い、継母にいじめられ、父親にかばいだてもされず、「親のない一茶」に居場所はありません。一生消えることのない、心に深い傷を負ったに違いありません。その証拠に、この句は、文政2年、つまり、愛娘さとを亡くした一茶57歳のときの『おらが春』に所収されています。しかし、この句からは、なぜか陰湿な暗さは微塵も感じられず、童話のようなほのぼのとした光景に慈愛の光が射しこんでいるようです。