身は父母の遺體なり

私事ですが、この2年間に私は両親を見送りました。平成30年の12月に母が急逝し、その約1年後に父が世を去りました。

立て続けにふたりの葬儀を営んだのですが、終わった後に私は言い知れぬ虚脱感に襲われました。仕事などとはまったく異なる、人生の一大事というか、大きな区切り、節目を経たような気がしたのです。

ウチは仏教寺院の檀家だんかなので、住職をお招きしての仏教式葬儀です。いわゆる葬式仏教では「成仏」や「極楽浄土での往生」などを祈ります。死後の裁きに備えて初七日などの追善供養をするわけで、私も亡骸に手を合わせました。

しかしながら「成仏」「往生」「冥福」などの仏教用語はそぐわない感じがしたのです。不謹慎かもしれませんが、ふたりが輪廻転生するとは思えないし、解脱して涅槃ねはんに入るというイメージもまったく思い描けません。

私の母と父は、たとえ死んでもそういうウソみたいな話は信じないような気がしてならない。喪主としては般若心経にいう「五蘊皆空ごうんかいくう」、すべては「空」だとあきらめるしかないと思ったのですが、亡骸を見つめているうちに、ひとつの言葉を思い出しました

身は父母の遺體ゐたいなり(『礼記 中 新釈漢文大系28』明治書院 昭和52年)

私の体は両親が遺した体、つまり形見だということです。通常、形見というと時計や着物など身につけていたものを想像しますが、自分の体が形見。こうして生きていることがふたりの形見なのです。

そう考えると、ふたりの魂が私の中にストンと入ってきたような気がしました。まさに腑に落ちたのです。仏教は両親を外へ外へと追い出していくようでしたが、『礼記』は内に取り込む。悲しみの中でエネルギーがチャージされるような感覚を覚えました。

家族三世代が手をつなぐ後ろ姿
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問いには答えるが、みずから問うことはしない

この『礼記』は儒教の教典のひとつとされています。儒教というと上下関係を重視する封建的な道徳に思われがちですが、よくよく読んでみると、その大半は葬儀の指南なのです。「死の宗教」と呼ばれるくらいで、席順なども含めた葬儀の式次第を事細かに定めています。

特に親の葬儀は重要とされ、親を手厚く葬ることが「孝」。親もまたその親の「遺體」ですから生命はつながっている。儒教とは生命の連続性を自覚する道ではないでしょうか。

儒教では、親を亡くすと3年間の喪に服すべし、と定められています。その間は「言ひて語らず、こたへて問はず」(前出『礼記 中』)。つまり口はきくが、語らない。問いには答えるが、みずから問うことはしない、という決まりです。