会社勤めというのは生活習慣であり、定年退職はその断絶である。多くの人は、自分の仕事や既得権を手放すのが「こわい」。ノンフィクション作家の髙橋秀実氏は『定年入門』(ポプラ社)で、60歳の定年できっぱり退職した女性に話を聞いている。彼女が定年退職を決意するためにリスト化した「30個のやりたいこと」とは――。

※本稿は、髙橋秀実『定年入門』(ポプラ社)の一部を再編集したものです。

しっかり試算きっぱり引退

「会社でもみんなに言われました。『えっ辞めんの?』『なんで辞めるの?』『辞めてどうするの?』『商売でも始めるの?』とか」

そう語るのは、3カ月前に印刷関連会社を定年退職したばかりの南村由香里さん(60歳)。彼女によると、同社ではほぼ全員が再雇用に応じるらしく、彼女のように60歳の定年で辞める人は珍しいそうだ。

「それだけじゃありません。中には『お金あるんだねえ』と言う人もいました。『辞めるとヒマだよ』『辞めるとボケるよ』などと忠告してくれる人もいたんです。でもその人たちは定年後も辞めてないんです。心配してくれるというより、みんな辞めるのがこわいんじゃないでしょうか」

確かに会社勤めというのは生活習慣でもあり、定年退職はその断絶である。南村さんによると、「自分がいなくなったら会社が困る」と信じたい人も多いそうで、裏を返せば自分の仕事や既得権を守りたい。それを手放すのがきっと「こわい」のだ。

髙橋秀実『定年入門』(ポプラ社)

――南村さんはこわくなかったんですか?

私が問い返すと、彼女は即答した。

「ないです。ちょっとでもこわいと思ったら辞めませんよ」

――では、なぜ辞めたんですか?

「単に経済的な理由です。将来のことを試算してみたら大丈夫だったので辞めることにしました。37年間同じ会社にいましたし、再雇用されてもたぶん同じ仕事。忙しさは変わらないのに給料がガクーンと減るだけですから」

入社以来、肩書ナシ

彼女は辞める3年前から周囲に「60になったら辞めますから」と宣言していたという。

「その仕事は3人のチームでやっていました。『私は辞めるから今すぐ人を入れてください』と上司に訴え続けたんです。おかげでチームは6人に増えました。それで私はフェードアウトできたわけです」

自らの「定年」を利用して、人員の補強を図ったのである。

――当時の役職、肩書は何だったんですか?

「ないです」

きっぱり答える南村さん。

――ない?

「入社以来、一度も役職には就いていません。チームのリーダーではありましたけど、肩書は一切なし。人事権も決裁権もなかったんです」

守るべき既得権もなかったそうなのである。ちなみに彼女が就職した当時は、男女雇用機会均等法も制定されておらず、4年制大学を卒業した女性たちの就職はきわめて困難だった。彼女は大卒だが、入社時は「短大卒扱い」。人事からは「2年は勤めてください」と勧告され、同期入社の女性たちは彼女を除いて全員が2年勤めて辞めていったという。