落語「目黒のさんま」からみる「行き過ぎた気遣い」

「官僚の忖度」が面白く描かれている落語があります。名作「目黒のさんま」です。

あらすじはこちらです。

隠無邪気な殿様が「目黒」まで鷹狩りに出掛けた際に、家来が弁当を忘れてしまいました。空腹を堪えられそうにない殿様のもとに、さんまを焼く香ばしい香りがただよってきます。たまらず殿様が食べたいというと、家来は「下々の庶民が食べる下魚(げうお)ゆえお口には合いません」と答えます。殿様は「よいから持って参れ」と無理やり持ってこさせます。そのさんまは、「隠亡焼き」という乱暴な直火焼きでブスブス音を立てているシロモノ。普段食べている上品な料理とは真逆だったのですが、たまらず一口食べてみると、その美味さに感激してしまい大好物となってしまった。
以来、殿様はさんまが夢にまで出てくるほど恋しくなってしまう。
ある日、身内が集まる際、なんでも好きなものを注文できることになり、殿様は「さんまが食べたい!」と言い出します。しかし下々の魚など準備してあるはずもなく、困惑した家来は慌てて日本橋の魚河岸から新鮮なさんまを買ってくる。それを「脂が多いと殿様の身体に毒だ」「骨が喉に刺さると一大事だ」といった「行き過ぎた気遣い」で脂も骨も抜いた味気ない吸い物に調理して差し出します。殿様がほのかなさんまの匂いを嗜みながらも一口食べると、まったく美味くない。
「これはどこで手に入れた?」と家来に尋ねると「日本橋魚河岸でございます」と返ってきたので、殿様はこういいます。
「ああ、それはいかん。さんまは目黒に限る」。
さんま祭り
写真=iStock.com/JianGang Wang
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ちょうどいまの深まりゆく秋の季節にうってつけの噺ではありますが、この「目黒のさんま」のお殿様を「政治家」に、家来たちを「官僚」に置き換えると完全に現代の政治にもつながります。そして、まさにそのまんま焼いたものほどおいしいはずの旬のさんまから、脂を抜いたりするなどの「行き過ぎた気遣い」が「忖度」に相当することに気付くはずです。

いい忖度、悪い忖度とは何か

実際、殿様に万が一のことがあれば家来は切腹を申しつけられるなどのかなりのストレスがあったはずでしょうし、今の時代とは比較にならない部分をカットしても見事に符合するのが実に面白いと思いませんか?

かような捉え方をすると、確実に古典落語が現代に生きるのではと確信します。

森友問題に関して、「先回りしすぎて文章を改竄する姿」と「脂の乗ったさんまを蒸して脂抜きをする姿」が完全にかぶります。双方ともトップはそんな具体的な指示を出していない点まで一緒なのが笑えるところでもあります。

忖度に該当する行為が「自分の保身のため」なのか、「トップを思いやってのこと」なのか、いずれにしても大切なのはそこなのかもしれません。

と、ここまで書いてきて、もしかしたら落語自体の楽しみ方が、「忖度」なのではという仮説にたどり着きました。

下半身の動きを制御し、しかもほぼ会話のみで話を進めてゆく落語は、お客さんが、「ああ、いま酒を飲んでいるな」とか「きっと与太郎がしくじるぞ」みたいなある程度「その先を想像する」という「忖度的な想像力」が前提となっているともいえます。「次はこうなるぞ」という登場人物の言動を「忖度」することで楽しみが倍増する作りこそが落語の根本であるともいえるのです。

武家屋敷にほとんど占領された江戸の狭い町並みで、相手の顔色を伺いながら細やかな神経を張り巡らせて生きてきた江戸っ子の想像力トレーニングの成果および結晶として、落語が出来上がったという見方をしてみると、あながち「忖度」も悪くはないものだとしみじみ感じてきます。

「忖度」には「いい忖度」と「悪い忖度」があるのかもしれません。