批評、批判を口にする際の作法と責任

このような状況にあっても、SNS上で長らく軽んじられてきたのが、発言をするにあたって負わなければならない「責任」だ。「自分はオマエらにカネを落としてやっている客だ」「自分は視聴率向上に貢献している視聴者だ」「自分は著名人のように優遇されていない、弱い一般人だ」などと暗に居直り、都合よく匿名性を利用しながら、無責任に罵詈雑言をぶつけてくるバカが、あまりに多すぎる。

いわゆるプロの批評家という人々は、自分の発言に責任を負ったうえで批評を行っている。「その指摘は間違っている」となれば、自分も批判の対象になるし、場合によっては立場や影響力を失うこともある。そうしたリスクなどもすべてひっくるめて責任を負い、批評や批判を展開しているのだ。

現在のSNSでは、そうした責任やリスクを負わず、ただ批判をするだけの人が跋扈ばっこしている。なにか問題が起きれば、アカウントを削除して、逃げる。責任は一切負わない。下手をすると「有名人はディスられるのも仕事のうち」「批判は有名税みたいなもの」「批判されるのがイヤなら、表舞台に出てくるな」と自分の愚行を正当化したりもする。

それ、違うだろ!

批判や批評とは本来、自分の発言に責任を持つ者どうしが、お互いの信念なり人生なりプロ意識なりをかけて、一定の敬意やコミュニケーションの作法を意識しながら発すべきたぐいの営みだ。一方的に石を投げつけて逃げることなど、許されるものではない。いや、仮にそういう発言や行為に及ぶのであれば、自分も同じ扱いを受けた場合、それを甘受しなければならない。

すべての発言には責任が伴う、という原理原則

私の尊敬する批評家のひとりに、故・勝谷誠彦さんがいる。勝谷さんは、コラムニストやテレビのコメンテーターとして、非常にエッジの効いた、忖度そんたくのない批判を口にして、毀誉褒貶きよほうへんが絶えなかった人だ。

実は私の母が、勝谷さんのファンだった。「毒舌なのがいい」と。それを勝谷さんに伝えたことがある。そのとき、勝谷さんは「『毒舌コメンテーター』って変な言葉だなぁ~。ただ、コメンテーターは毒舌でなければ意味がないよ。本音で表現するからこそ、存在意義がある」と言っていた。人々が口にしづらいこと、違和感や不信感が拭えないことをちゃんと表現するのがコメンテーターの矜持であり、それに伴うリスクや反論にもちゃんと対峙する。それが批評する人間の責任である。そういう考え方を持っている人だった。

すべての発言には責任がともなう。これは立場や環境に関係なく自覚すべき、原理原則である。批評、批判は自由だ。ただし、開かれた場で発言をする以上は責任を持たなければならない。そして、批判する相手がどう受け取るかを注視しながら、冷静なコミュニケーションを意識しなければならない。相手を死に追いやるような、一方的な罵詈雑言などもってのほかなのだ。