人の善意はそう簡単に期待できない

どうしても性善説を信じたいのであれば、前提条件を考える必要があるだろう。

相手から善意や好感を引き出したいのであれば、そこに至るまでに良好なコミュニケーションを積み重ねて、お互いに「この相手のことは裏切れない」「この人、本当に頑張っているな。応援したいな」「この人と対話するのは心地よいな」「この人の好意に自分も応えたい」などと思えるような信頼関係を構築しておく必要がある。要するに、人の善意はそう簡単に期待できないということだ。見ず知らずの人間どうしが唐突にネット上でやり取りする程度では、善意と信頼感に基づく関係性など築けるはずもない。

私はSNSが普及してから、ネット上で相手との距離感がつかめない人間が増えているように思えてならない。対話にしても、信頼関係の構築にしても、自分の発言に対する責任感にしても、キモになるのはとどのつまり、相手との距離感である。それがわからないから、いきなり距離を詰めてなれなれしくしたり、勝手に憤って攻撃してきたりするのではなかろうか。

「本当に大切な人」とのつながりを大切に

郵便にしろ、電話にしろ、インターネットにしろ、遠距離通信とは相手との距離を埋めるために発達したツールである。それらは本来、人を傷つけるためのツールではない。互いに信頼感を持てる者どうしがつながるためのツールなのである。

たしかに、インターネットは人間のコミュニケーションの幅を広げてくれた。以前であれば知り合う可能性がなかった人間どうしがつながれるようにもなった。とはいえ、見ず知らずの人間と無理してまでつながる必要はないのも事実だ。SNSの出現により、本来聞く必要がないようなノイズをイヤでも意識せざるを得なくなり、付き合う必要がないようなバカの相手をしなければならなくなった。

ここで改めて問いたいのは、あなたにとって、本当に大切な人は誰か、ということだ。

冷静に考えてみれば、それほど多くは存在しないだろう。信頼できる家族や心から尊敬できる友人、自分を本当に評価してくれる仕事仲間や取引先の担当者……せいぜい10~20人くらいではないだろうか。別に少なくても構わない。数人もいれば十分だし、1人、2人でもいてくれれば救われるはずだ。

そうした人々とのつながりを大切にしながら生きていけば、それだけで十分、幸せを感じることができる。本当の充実感が得られるかどうかは、日常のなかにある、ささやかな幸せを感じることができるかどうかで決まる。逆にいえば、現実的で、身の丈に合った日常を大切にできない者は、絶対に幸せにはなれないのである。