パワハラ・セクハラする者にお釈迦さまも嘆いていた

多くの組織では、同僚たちと比較する形で、相対的な成果が問われる。なかには自己の評価を上げるために相手を攻撃し、陰で誹謗して相手を陥れる者は決して少なくない。客観的に見ればそれは「自己防衛」の裏返しだろう。しかし、攻撃されるほうはたまったものではない。

他者を傷つける行為は、お釈迦さまも嘆きのタネであったようで、お釈迦さまは、このようなことを言っている。

「愚かな人は他人に害を与えることを好む。
その言葉にはまごころや真面目さがない。
他人に与えることをしないで、奪うことをする。
そのような人は好んで他人の女を犯す」(『法句経』第26章 心を汚す煩悩の章 10)
――宮澤大三郎著『原始佛典 全訳「法句経」

いまふうに言い換えれば、「パワハラをする人は自制が効かないのが特徴で、言葉遣いも荒く、人の成果をも自分の手柄のようにし、セクハラも犯す」ということか。あなたの会社に、このような暴力的でかつ、女性関係にもだらしない上司や同僚はいないだろうか?

己の愚かさを気づかせ、改心させることは至難の業

また、お釈迦さまは、パワハラの気のある弟子をこのようにいさめたことがあった。

鵜飼秀徳『ビジネスに活かす教養としての仏教』(PHP研究所)。元経済系記者で浄土宗僧侶の著者が、現代のビジネスシーンに置き換えながら、仏教を「再翻訳」した“世界一わかりやすい仏教本”。

お釈迦さまの弟子にアトゥラ信者という、相手を思いやれない者がいた。彼はある時、教えを授かりに、「禅定第一」と呼ばれたレーヴァタ(離婆多)長老のところに向かった。しかし、長老は静かに瞑想をするだけで、何も語ろうとしなかった。ムカッとした信者はこの長老をののしり、去っていった。

次に信者が向かったのは、サーリプッタ(舎利弗)長老のところだった。この長老は「智慧第一」と呼ばれ、お釈迦さまから最も信頼されていた人物だ。長老は信者に理解できないような難解な説法を始めた。すると、また彼は怒って去っていった。

次に信者が向かったのがアーナンダ長老のところ。長老は「多聞第一」と呼ばれ、お釈迦さまのとくに近くで仕えた人物で知られている。この長老は子供に理解させるように、やさしく説法をした。しかし、信者は「物足りない」と腹を立ててしまった。

そして、最後に向かったのがお釈迦さまのところだった。お釈迦さまは、諭したものの、最後は「愚かな者たちの非難や賞賛には際限がない」と嘆かれたという。

お釈迦さまの時代も、今も、組織の中での人間関係は似たようなものだったようだ。常に自分を正当化し、相手の非をなじるような者に、己の愚かさを気づかせ、改心させることは至難の業なのだ。