数々の企業を設立したが自らの財には無関心
帰国した渋沢を待っていたのは、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ、江戸から静岡に移住した慶喜たちの姿でした。しかし、人の運命とは不思議なもの。帰国後、新政府から静岡藩を与えられた旧幕臣らとその地へ移った渋沢は勘定組頭となり、藩と在地商人らによる「商法会所」を設立。商業と金融業を始めますが、これが縁で新政府に見出されます。
その後、政府の大蔵官僚を経た渋沢は、1873年、日本初の近代銀行である第一国立銀行が設立されると、総監役、そして頭取に就任します。ただ、この頃の国立銀行は国立銀行条例によって設立をみた金融機関であり、「国法によって創られた銀行」。国営・国有のものではなく、あくまで民間の銀行でした。また、条例の制定により、全国各地で国立銀行創設の気運も高まっていました。
近代企業を株式会社として設立することを強調した渋沢は、自ら先頭に立って経営に参画し、日本初の洋紙製造会社である抄紙会社(現・王子製紙)や、紡績会社(現・東洋紡)、海上保険会社(現・東京海上日動火災保険)などを創設しました。しかし、彼は決して自身の財を築くようなことはしませんでした。それは彼が生涯、三井、三菱、住友といったような大財閥を形成しなかったことからも明らかでしょう。
「経済と道徳は車の両輪のようなもの」
それよりも彼は、日本の近代産業を育成・発展させるため、『論語』を徳育の規範として「道徳経済合一説」を実践しなければならないと提唱しました。
営利の追求も資本の蓄積も、道義に適ったものでなくてはならない。仁愛と人情に基づいた企業活動を、民主的で合理的な経営のもとで行なえば、国は栄え、国民生活も豊かになる。そのためには教育が重要と考えた渋沢は、東京高等商業学校(現・一橋大学)、大倉高等商業学校(現・東京経済大学)、岩倉鉄道学校(現・岩倉高等学校)などの創設・発展にも尽力します。
1909年、彼は70歳を迎えたのを機に、第一国立銀行などを除き、60にもおよぶ事業会社の役職を辞任します。さらに、1916年には金融業界からも引退。著作『論語と算盤』の出版はその年のことでした。社会・公共事業に専念しつつ、渋沢は道徳の重要性を説きました。
明治後期から大正にかけ、日本人の暮らしがこの時期ほど豊かになった時代はなかったでしょう。でも、心の豊かさはどうでしょうか。経済も同じです。企業は利潤を追求しますが、その根底に正しい道徳がなければ企業は不正の中に倒れ、存続できません。
各種国際親善事業を自ら先頭に立って推進しながら、衣食足りて礼節を知る、貧すれば鈍す——経済と道徳は車の両輪のようなものと語り続けた渋沢栄一。新一万円札の肖像に、彼こそ相応しい人物といえるのではないでしょうか。