村への怒りから身分制度に目を向けた
そんな渋沢は、1840年2月13日、武蔵国血洗島村(現・埼玉県深谷市)の豪農に生まれました。父・市郎右衛門は、この地の特産物である藍玉の製造と養蚕を兼営。米、麦なども手がける有数の富裕で、近隣村落の信望も厚く、村役人を任され苗字帯刀を許された人物でした。
ところが、こうした渋沢に転機が訪れます。17歳の頃、父の名代で村の代官所へ赴いたことがありました。世は幕末。村の領主・岡部藩安部家も積赤字に苦しみ、領内の豪農に御用金を課していました。豪農たちは、それを無条件で受け入れていたのです。
しかし、はじめて会合に出た渋沢には、何か釈然としないものが。渋沢が「父に伝えてから返答します」と答えると、代官は彼を見下げ、「百姓の小倅が」と嘲弄。腹立たしさが渋沢を襲いました。
そもそも御用金は年貢ではなく、いわば藩が無心しているものであり、返済されませんでした。それをなぜ高圧的に命じるのか。渋沢はその怒りを社会の仕組み=身分制度に向けます。1863年、国内における尊王攘夷ブームの最中、彼は同志と共に「高崎藩の城を攻略し、横浜を焼き討ちしよう」というとんでもないことを画策します。まさに無謀な計画でした。
パリ博覧会で商人の社会的地位向上を決意
計画は事前に露見、渋沢は幕府のおたずね者となりましたが、その窮地を救ったのは、江戸留学時に面識のあった将軍家の家族で一橋家の用人・平岡円四郎でした。渋沢は算盤勘定ができるため、一橋家で平岡付きの用人となったのです。
一橋家の財政再建で手腕を発揮した渋沢は、1867年正月、将軍徳川慶喜(よしのぶ)の実弟・昭武(あきたけ)のパリ万国博覧会列席に随行します。パリへ渡った渋沢は、生まれて初めて汽車に乗り、市中を散策して、西洋文明に触れました。
なかでも、銀行家が軍人と対等に会話を交わす場面には衝撃を受けたようです。日本では商人の地位は低く、彼らには己れの卑屈さに馴れている一面がありました。さらには、当時の日本には「利は義に反する」といった儒教道徳が定着していて、経済を「卑しいもの」とする幕府は、御用金頼みで財政難をしのごうとしていました。
欧州文明を見聞した渋沢は、これからの日本はまず「殖産興業」をおこさなければならないと痛感していました。そのためにはまず、商人を卑しめる慣習を拭い去り、彼らが自信と誇りを持てるようにしなければならない。渋沢はそれに気づき、商人の社会的地位向上を目指していきます。