※本稿は、加来耕三『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。
大軍に戦術はいらないが、弱者には戦術が必要
小よく大を制す――戦術の力で、戦略の劣勢をひっくり返した例といえば、
“日本三大奇襲戦”の一つに、幕末の歴史家・頼山陽が数えた「桶狭間の戦い」(1560年・永禄3年)が、真っ先に思い浮かびます。
実兵力2万5000の今川義元の大軍に対して、挑む織田信長はわずか3000弱ほどの兵力しかありませんでした。しかし、皆さんもご存知のように、信長はわずかな兵力で奇襲を敢行し、今川軍を尾張から撃退しました。
今川軍にすれば、負けるはずのない戦いであったはずです。味方は2万を超える大軍であり、敵はわずかに3000なのですから、戦力の実力は、自乗に比例する――数の力で正攻法に押せば、簡単に勝てる、と義元は考えていたことでしょう。
わずか3000の兵を相手に、細々とした作戦を立てる必要はない、と考えていた今川方は、敵将である信長のことを一切リサーチしていませんでした。
彼について少しでも調べていれば、信長が無鉄砲に思われる性格で、一か八か運を天に任せて、今川の本陣を探しつつ、突っ込んでくる可能性がある、と予測できたはずです。
しかし義元は、2万5000の兵をもって信長の居城・清州(清須)城を取り囲めば、すぐに相手は降参するだろう、と漠然と(「戦術」一つ持たずに)考えていました。
信長が劣勢をもって、清洲城を打って出て、今川の本陣めがけて襲ってくるという発想が、義元にはそもそも浮かばなかったのです。
織田勢に奇襲された後も、今川軍にはまだ勝ち目――少なくとも敵将信長を葬る――がありました。
なにしろ兵の数では、敵を圧倒していたのです。奇襲されても冷静に、これを迎え撃っていれば、当初は混乱しても、ついには返り討ちにできたはずです。
ところが今川軍は、碌に警戒することもなく、各隊が分散して各々、食事をとっていました。敵地であるというのに、見張りも適当にしか立てず、すっかり油断していたのです。