「偶然の勝ちはあるけれども、偶然の負けはない」
一方の信長は、しゃにむに今川の本陣を求め、駆けつづけていました。
わずかな兵力で、城に立て籠もっていても勝てるはずはありません。
ならば、油断している相手の隙を突いて、万に一つ義元の本陣に行きつけば、逆転して、勝利できるかもしれない、と信じて、その戦術を最後までやり切ったのが信長の信念でした。
「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」
この言葉は、江戸時代後期の大名で、肥前平戸藩主の松浦静山のものだといわれています。静山は文武両道に優れた人物で、自ら藩校で講義を行い、剣術は心形刀流の達人でした。著した『甲子夜話』は有名です。
「偶然の勝ちはあるけれども、偶然の負けはない」――つまり、敗北にはすべて必然性がある、と静山は言っていたわけです。
そういえば、プロ野球の野村克也監督も、この言葉を好んで口にしていましたね。
日本史の合戦には、信じられないような強者の、逆転負けのケースがいくつもありますが、それは弱者側の巧みな「戦術」によってもたらされたものでした。
15万の大軍を3000の兵で破った戦術の達人・立花宗茂
当初に立てた「戦略」を遂行するために、刻一刻と移り変わる戦局にあって、積み重ねる作戦が「戦術」です。
現場で作戦を遂行するリーダーに、なくてはならない能力は臨機応変な反応といっていいでしょう。
実際の戦術とは、どんなものなのかを具体的にイメージしてもらうために、
“生涯無敗”の戦国武将・立花宗茂が自ら用いた戦術を紹介しましょう。
この人物は豊臣秀吉が、「鎮西(九州)一」「日本無双」と称賛した武将です。15歳の初陣以来、自ら指揮した戦いで敗北を喫したことが一度もありませんでした。
若くして、筑後国(現・福岡県南部)の柳河13万石余の城主となった人物です。
戦国最強の割には、知名度が今一つ⁉ 最近はアニメやゲームの影響もあり、戦国武将の人気投票でも上位にランキングされるようになりました。
宗茂は少数の兵をもって大軍を討ち破り、不利な局面を有利に一変するのが得意な、奇跡の武将でした。
例えば、同じ九州に拠点を持つ島津勢の5万の大軍に対して、わずか4000の兵で対抗した際は、立花山城に立て籠もり、一歩も退かない籠城戦を貫徹してみせました。
完璧に城を守り抜き、島津勢が豊臣秀吉の大軍来襲を知り、逃げ出すやすかさず、1500ほどの手勢を率いて、5万の島津軍を追撃し、後尾を翻弄してみせたのです。
豊臣秀吉が仕掛けた朝鮮出兵においては、前半の「文禄の役」において、明の将軍・李如松率いる4万3000と、李氏朝鮮10万余の計15万の連合軍に対して、宗茂はわずか3000の兵で大勝してみせました。「碧蹄館の戦い」といいます。
これは日本の合戦史上、類を見ないほどの戦力差をひっくり返した、一大逆転勝利といえるでしょう。