ビジネスにも通底「戦える単位まで敵を頭の中で割っていく」

敵からすれば、わずかな兵で何ができるのだ、と相手を侮っていた分、弱点を突かれ、自陣の一角が崩されるとたちまち混乱し、パニックを引き起こして、簡単に戦意を喪失してしまうわけです。

なんとか落ち着きを取り戻し、敵が反撃に転じて来ると、立花軍は無理してつづいての敵対などしません。さっさと、引き上げてしまうのです。

逃げる立花軍を嵩にかかって、追ってきた敵軍はどうなるか。宗茂は伏せておいた第二部隊、第三部隊に命じての、一斉射撃や槍での奇襲攻撃を食らうことになるのです。

いくら戦術に自信があっても、ふつうは大軍を前にすると、震えあがってしまい、まともな思考ができなくなるものです。

大会社の社員は堂々としており、中小企業の従業員はびくびくしている、といわれるのがこれです。

しかし宗茂は、明の兵数が15万の大軍だと聞いても、彼の頭脳は15万というかたまりでは敵をとらえませんでした。配置の兵数を地図上で分けていき、自らの兵力と同じ単位に砕けるまで、敵を頭の中で割っていきます。

敵の弱い部分を探し出し、その部隊をひと塊ととらえて勝負に出るので、宗茂は感覚的には自分たちと同数ぐらいか、せいぜい倍ぐらいの敵を相手にしている、といった心持ちだったのではないでしょうか。

味方の将兵たちにもそのように伝え、彼らの士気を鼓舞して、小さな単位を次々とつぶして勝利をつかんだ宗茂の戦い方は、現代のビジネスでもそのまま、実践することができるのではないかと思います。

「集中」と「スピード」で戦いを制する

立花宗茂の例も、前述の織田信長の例も、戦術において重要なことは「集中」と「スピード」であることを教えてくれています。

いかに戦力を、一点に集中させるか?
いかにスピード感をもって、素早く行動に移せるか?

織田軍の桶狭間の戦いは、信長が戦術を今川本陣への直接攻撃に絞り込み、あとは本陣へ到達するまでひたすら走り続けたことが成功につながりました。

少ない兵力で清州城に籠もって戦っても、とうてい勝ち目はなかったでしょう。

少しでも奇襲をためらっていたら、わずかしかない勝機を逃していたはずです。

同様に、立花宗茂も兵力を一点に集中し、相手の弱点を攻め立て、傷口を広げて戦いを勝利に導きました。

一方、平安時代末期に活躍した源義経も、「集中」と「スピード」に長けた戦いの申し子のような人物でした。

急峻きゅうしゅんな山肌を騎馬で駆け下りて、平家の陣を背後から奇襲した“一ノ谷の戦い”や、嵐の中、わずかな船で四国に渡り、少数で平家を強襲した“屋島やしまの戦い”──。

加来耕三『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』(クロスメディア・パブリッシング)
加来耕三『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』(クロスメディア・パブリッシング)

いずれも、戦力を一点に集中して、素早く敵陣に襲いかかったものでした。

義経は、この難しい作戦を実行するにあたり、選りすぐりの兵を集めています。

一ノ谷の戦いにおける“ひよどり越えのさか落とし”をする際も、そもそも難易度の高い騎馬戦ができる郎党や武者の中から、さらに腕の優れた者を選抜していました。

同じほどのスピードで、鵯越えを駆け下りられる人間が揃わなくては、せっかくの奇襲が成り立たなくなってしまいます。

戦術を実行する上で、「集中」と「スピード」は不可欠です。

【関連記事】
家康が60歳でも子作りに励んだから今も徳川家は続いている…17歳から65歳でつくった「11男5女」全一覧
3位は姫路城、2位は松山城、1位は…歴史評論家が選ぶ「2024年の夏に訪れるべき日本のお城ランキング」
「戦国時代の日本で黒人奴隷が流行」は定説になりつつある…トンデモ説が欧米で"史実"扱いされる恐ろしい理由
昭和天皇が父親のように慕っていた…太平洋戦争を終結に導いた「77歳の老臣」に昭和天皇が打ち明けた本音
NHK大河ドラマを信じてはいけない…紫式部の娘・賢子が異例の大出世を遂げた本当の理由