※本稿は、辻田真佐憲『天皇のお言葉』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
「病身の天皇」として知られる大正天皇
大正天皇(嘉仁)は、1912年7月に践祚(せんそ)した。33歳だった。
大正天皇といえば、病身の天皇として知られている。第一次世界大戦以降には、帝国議会の開院式に出席できなくなり、1921年11月、摂政が置かれて事実上の引退状態となった。病状はその後も復せず、1926年12月、静養先の葉山御用邸で崩御した。なんらかの脳の病気だったと考えられている。
事実上の在位が10年に満たなかったため、大正天皇は前後の天皇にくらべて影が薄いといわざるをえない。その言葉についても、公式記録の『大正天皇実録』が素っ気ないこともあって、あまり豊富ではない。
ただ、天皇はずっと病身で静養していたわけではなかった。少なくとも、治世の初期はそれなりに元気だったのであり、政務にも取り組んでいた。事実上の引退によって、健康だったころの言動まで色眼鏡でみられているところがないではない。
「巻物を丸め、遠眼鏡のようにして覗き込んだ」という噂
いわゆる遠眼鏡事件もそのひとつだろう。大正天皇が帝国議会の開院式で、読み終わった勅語の巻物をぐるぐると丸め、遠眼鏡のようにして覗き込んだという噂だ。大正天皇が暗愚だった象徴のように語り継がれ、個人的な話で恐縮だが、筆者自身も小学生のときに学校か塾かで教えられたことがある(その上、天皇が「アメリカがみえる」とつぶやいたなどというエピソードまで付け加わっていた)。
そのいっぽうで、これについてはまったく違う証言も残されている。天皇はかつて、議会で勅語の巻物を上下逆に開けたことがあった。担当の者が間違って渡してしまったらしい。当然そのままでは読めないので、天皇は衆人環視のなかで巻物を巻き直さなければならなかった。
これで恥ずかしい思いをした天皇は、そのつぎはなかを覗き込み、上下が正しいことを確認した上で、巻物を開いた。天皇はその日、奥で女官に今回は首尾よくいったと伝えたという。
この行動が結果的に遠眼鏡事件として広まってしまった。それがこの女官、坂東登女子の戦後の回想である(山口幸洋『椿の局の記』)。
もちろん、この証言も確かなものではない。時期が曖昧であるし、かなり時間がたってからの言葉でもあるからだ。さはさりながら、天皇を暗愚の一言で片付けることには待ったをかけなければならない。