※本稿は、辻田真佐憲『天皇のお言葉』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
宮中改革を受け入れ質実剛健な気風に親しむ
記録こそ少ないものの、若き日の明治天皇の私的な言葉が残っていないわけではない。
天皇は1870年代の前半、つまり10代後半から20歳ころまでの時期に、士族出身の高島鞆之助(とものすけ)侍従と剣道をして、
と叫びながら、木刀でなんども高島を叩いたことがあった(渡辺幾治郎『明治天皇』)。北朝の子孫である天皇が、南朝の功臣である楠木正成に成り代わっていた。大義名分にうるさいものが聞けば、卒倒するかもしれない。私的でなければお目にかかれないたぐいの言葉だった。
東京に移った天皇は、たくましく成長しつつあった。みやびかもしれないが、なよなよとしていて、ひきこもりがちな公家の文化は、近代国家の君主にふさわしくなかった。天皇は、宮中改革を受け入れ、白粧をやめ、髷を切り、代わりに武道をたしなみ、馬に乗り、お気に入りの侍臣などを集めて宴会を開き、勇壮な物語を肴に大酒を飲むなど、質実剛健な気風に親しむようになった。それが言葉の端にもあらわれたのである。
私的な空間では残っていた「京都弁」
とはいえ、15歳まで京都で育った天皇には、それでも公家の文化が色濃く残っていた。その象徴が、京都弁だった。公式記録の『明治天皇紀』では文語体に直されているものの、天皇の私的な言葉は訛っていた。とくに奥(天皇の私的な生活空間)ではそうだった。
側室のひとり、柳原愛子(なるこ・大正天皇の生母)は証言する。天皇は夏でも冬でも、政務では冬用の服を着用していた。したがって炎暑の日には汗がものすごいことになった。もっと涼しい服を着ればいいものを、天皇はこういって改めようとしなかった。
「御真影」の厳しいイメージには似つかわしくないが、現実にはこんな柔らかい言葉も話していたのだ。
天皇はまた能が好きだった。英照皇太后(天皇の嫡母)のため青山御所に能舞台を建て、自身もしばしばおもむいて観劇した。しかるに、皇太后が亡くなるとまったく接点がなくなった。側近の岩倉具定が「御好き様なものなら、時々御催し遊ばしては如何でございます」と提案したものの、天皇はこれまた京都弁で、
と退け、ついに能を楽しまなかった。