1945年8月14日、宮城の御文庫附属室(地下壕)で御前会議が開かれた。天皇は鈴木貫太郎首相らの意見を聞いたあと、ポツダム宣言受諾の意志を示した。どんな内容だったのか。近現代史研究者の辻田真佐憲氏が解説する――。
昭和20年8月15日終戦の日の北海道新聞紙面
昭和20年8月15日終戦の日の北海道新聞紙面(写真=北海道新聞社/時事通信フォト)

※本稿は、辻田真佐憲『天皇のお言葉』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。

1945年7月、ポツダム宣言が発表された

1945年4月7日、対中和平工作の失敗を受けて小磯内閣が退陣し、鈴木貫太郎内閣が成立した。鈴木は、二・二六事件で重傷を負った元侍従長だった。はじめ老齢などを理由に首相就任を固辞したが、天皇の切々たる説得に応じざるをえなかった。

鈴木の心境は、よく分る。しかし、この重大な時にあたって、もう他に人はいない。
頼むから、どうか、まげて承知してもらいたい。

日本をめぐる情勢は悪くなるいっぽうだった。5月、ヨーロッパでドイツが降伏し、枢軸国陣営で残る主要国は日本だけとなった。6月、沖縄における日本軍の組織的な抵抗が終わった。いよいよ日本本土が戦場になろうとしていた。

同月、和戦両様の準備が進められた。御前会議で、本土決戦の方針が決定されるとともに、別の御前懇談会で、戦争終結のために対ソ交渉を行なうことも決定された。ただ、ソ連はすでに対日参戦を決めていたので、なんの進展もみせなかった。

7月26日、米英中三国の連名でポツダム宣言が発表された。日本にたいする降伏の勧告だった。戦争終結の条件として、軍国主義の除去、日本領土の占領、日本軍隊の武装解除、戦争犯罪人の処罰などを掲げ、日本にたいしてたいへん厳しい内容だった。

三種の神器と「運命を共にする」

此の儘に受諾するわけには行かざるも、交渉の基礎と為し得べしと思はる。

天皇は、27日に東郷茂徳外相にこう語るかたわらで、本土決戦も覚悟せざるをえなかった。そこで心配されたのが、三種の神器だった。31日、天皇は木戸内大臣に悲壮な胸の内を語った。

先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。[中略]万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ。

三種の神器は、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のことで、皇位の証とされる。このうち八咫鏡は伊勢神宮に、草薙剣は熱田神宮にあった。そのため天皇は、敵に奪われないように自分の身近に移そうかと悩み、いざというときは「運命を共にする」とまで決心していたのである。天皇は明らかに追い詰められていた。

そして8月、事態は最悪の方向に進んだ。6日と9日、米軍が広島と長崎に相次いで原爆を投下した。またそのあいだの8日には、頼みの綱だったソ連が日本に宣戦布告した。これで日本は万策が尽きた。