※本稿は、辻田真佐憲『天皇のお言葉』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
1945年7月、ポツダム宣言が発表された
1945年4月7日、対中和平工作の失敗を受けて小磯内閣が退陣し、鈴木貫太郎内閣が成立した。鈴木は、二・二六事件で重傷を負った元侍従長だった。はじめ老齢などを理由に首相就任を固辞したが、天皇の切々たる説得に応じざるをえなかった。
頼むから、どうか、まげて承知してもらいたい。
日本をめぐる情勢は悪くなるいっぽうだった。5月、ヨーロッパでドイツが降伏し、枢軸国陣営で残る主要国は日本だけとなった。6月、沖縄における日本軍の組織的な抵抗が終わった。いよいよ日本本土が戦場になろうとしていた。
同月、和戦両様の準備が進められた。御前会議で、本土決戦の方針が決定されるとともに、別の御前懇談会で、戦争終結のために対ソ交渉を行なうことも決定された。ただ、ソ連はすでに対日参戦を決めていたので、なんの進展もみせなかった。
7月26日、米英中三国の連名でポツダム宣言が発表された。日本にたいする降伏の勧告だった。戦争終結の条件として、軍国主義の除去、日本領土の占領、日本軍隊の武装解除、戦争犯罪人の処罰などを掲げ、日本にたいしてたいへん厳しい内容だった。
三種の神器と「運命を共にする」
天皇は、27日に東郷茂徳外相にこう語るかたわらで、本土決戦も覚悟せざるをえなかった。そこで心配されたのが、三種の神器だった。31日、天皇は木戸内大臣に悲壮な胸の内を語った。
三種の神器は、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のことで、皇位の証とされる。このうち八咫鏡は伊勢神宮に、草薙剣は熱田神宮にあった。そのため天皇は、敵に奪われないように自分の身近に移そうかと悩み、いざというときは「運命を共にする」とまで決心していたのである。天皇は明らかに追い詰められていた。
そして8月、事態は最悪の方向に進んだ。6日と9日、米軍が広島と長崎に相次いで原爆を投下した。またそのあいだの8日には、頼みの綱だったソ連が日本に宣戦布告した。これで日本は万策が尽きた。