家庭と職場と遊び場が混然一体となった家
▼取材のあとで
鷺巣詩郎さんは生まれ育った家について語るとき、「そこは自分にとっての原点ですね」と、インタビューの一言目にはっきりと言った。
アニメーションや特撮の大家である父・うしおそうじ氏、かつて手塚治虫の担当編集者でもあった母、両親の仕事をめぐって自宅に出入りする人々や住み込みのスタッフ――。
彼にとってそこは生家であると同時に、両親の職場であり、様々な人が集うコミュニティの拠点だったからである。
家庭と職場と遊び場が混然一体となった家。その思い出を振り返りながら、あれも楽しかった、こんなこともあった、と尽きることなく話す鷺巣さんは、実にうっとりとした表情を浮かべていた。
スタジオや撮影室、作画室を行ったり来たりし、素晴らしく精密な背景画を描く父の手元を膝の上から見る。ときには特撮のための白馬まで飼っていたというその場所は、子供の頃の彼にとって、決して退屈することのない夢の世界のようなものだったのだろう。そうして豊かな「表現」のエッセンスを幼い時から吸収してきた彼は、天性の才能を「家」によって開花させたのだといえる。
父の「謎」を人生を通して解こうとしている
また、話を聞くうちにぼくが胸に抱いたのは、鷺巣さんは才能の塊ともいえる父の「謎」を、自らの表現者としての人生を通して解こうとしているような人だ、という思いだった。
「父は『アイデアが湧き出て湧き出て止まらない』という表現者でした。朝から晩まで何かを描いていたし、家族で旅行に行っても何かが気になると、いつの間にか漫画を描き始めている。こんなに見ていて楽しい人はいませんでしたよ。本当に死ぬまでそうしていたんですから。その様子を間近で見ていた僕は、クリエイションとはそういうものなんだ、と思い続けてきたんです」
鷺巣さんは父であるうしおそうじ氏から、何かを教わったことは一度もなかったという。文字通り父親の背中を見つめるうち、自然と表現の世界へ足を踏み入れていった――。そう語った上で鷺巣さんは現在の自分について、「父と生き写しだと思います。まァ、僕が父を真似ているんですけれどね」と微笑んだ。
そのように父のスタイルを模倣することで、彼が確かめようとしていること。それは愛してやまない父親の見ていた世界が、どのようなものであったかというその答えなのではないか。三時間近くにわたったインタビューを終えたとき、そんな考えがふと胸によぎったのである。
作編曲家
1957(昭和32)年東京都生まれ。作編曲家。78年「ザ・スクエア」のデビューアルバムに参加。90年代以降はロンドン・東京・パリの三拠点で活動している。『シン・ゴジラ』など劇伴音楽も多数作曲。著書に『執筆録』、CDアルバムに『録音録』『アニソン録 プラス。』などがある。
稲泉 連(いないずみ・れん)
ノンフィクション作家
1979年生まれ。2002年早稲田大学第二文学部卒業。2005年『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』(文春文庫)で第36回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『豊田章男が愛したテストドライバー』(小学館)、『ドキュメント 豪雨災害』(岩波新書)などがある。