七〇年代の反体制の雰囲気にも影響されていった
僕が父親の仕事を継がずに音楽の世界に向かったのは、この学校で高校卒業までを過ごした体験が大きかったです。
一つは中学一年に上がったとき、先輩であるギタリストの渡辺香津美さんの演奏を聞いたことです。
彼は早熟で当時はまだ十七歳の高校生だったけれど、すでにアルバムを出していました。学園祭で演奏を聞いて、とても感銘を受けたんです。僕もクラブ活動でブラスバンド部にいたので、音楽って面白いな、という気持ちを素朴に抱き始めました。
それにあの頃は一九六六年にビートルズが来日して、いわゆる「外タレブーム」が始まった時期。学校は日本武道館のそばでしたから、ライブをすぐに見に行ける環境でもあった。七〇年代の反体制の雰囲気にも影響されて、小学生が漫画や特撮に惹かれていくのとは別の形で、ファッションや音楽に熱中していったんです。卒業後は一応、大学にも入りましたが、授業には一切出ずに音楽活動に専念していました。
長く暮らした世田谷の生家を離れたのはちょうどその頃です。世田谷の家やスタジオは借地だったのに加え、特撮スタジオが仙川や聖蹟桜ヶ丘に移った。もともとアニメ関係の会社は練馬に多いし、そこでいずれにも便の良い荻窪に引っ越そうという話になりました。
松本伊代のデビュー曲を編曲することに
新しい家は土地が三区画分の三〇〇平米、鉄筋の二階建て。仕事と生活は相変わらず混然一体で、一階の居間は父親の映写室と兼用、倉庫はフィルム編集室でもあり、二階も子供たちの部屋や父の書斎、両親の寝室の他に、家族の居間兼ビデオ編集室になっている部屋がありました。
僕が作編曲家として忙しくなっていったのは、しばらくして筒美京平さんを紹介してもらい、LPやシングルのB面の曲を作る機会を戴いて以降です。
七〇年代の終わりから八〇年代の初めは、音楽業界がいちばん華やかだった時代でしょう。歌謡曲、ニューミュージック、演歌の三つがドル箱として業界を支えていて、筒美京平さんはその作編曲家の世界のトップでした。そのなかで「面白いじゃない」と筒美さんに認めてもらったことで、彼に依頼が来た松本伊代のデビュー曲(「センチメンタル・ジャーニー」)を僕が編曲することになったんです。
当時は僕が二十四歳、松本伊代が十六歳。よくぞ託してくれたなァ、と思います。そして、その曲がオリコンのランキングに出た翌日から、仕事依頼の電話が鳴りやまなくなりました。「作編曲家なら筒美京平さんと仕事をしなきゃ意味がない。名刺なんてなくてもそれがいちばんの名刺代わりだ」と言われていた理由がよく分かりましたね。