「パリに仕事場を持ちたい」と考えた理由

以来、作編曲家として多忙を極めるなか、鷺巣さんは荻窪の家を離れ、港区に自宅兼仕事場を構えた。数々のアイドルの曲を手掛け、レコード大賞の総音楽監督や『笑っていいとも!』のオープニング曲も担当。一九八〇年代の末からはパリに仕事場を持ち、クラブ経営を行なった時期もある。

アニメの聖地が練馬・杉並近辺であるのに対して、日本の音楽業界の聖地は港区でした。僕の所属する事務所も飯倉にあったので、その近くに引っ越すことにしたんです。

借りたのはロシア大使館の斜め前、麻布郵便局の裏手にあったマンションの一室です。一〇〇平米くらいの3LDK。六世帯しかないマンションで、国会でも話題になった松野頼三さん、細川護熙さん名義の部屋もあるいわくつきの物件でした。そこで暮らしていたのは五年くらいです。とにかく仕事が忙しくて、記憶が曖昧になるほど働いていた期間です。

パリに仕事場を持ちたいと考えたのは、そのうちにファクスが普及したのが第一の理由です。僕らのような“譜面書き”は、スコアを書き終えると、朝でも深夜でも写譜屋さんに電話をして取りに来てもらっていました。でも、その譜面をファクスで送れるようになれば、もうどこにいても構わない。

ホテル王・コスト兄弟が、珍しがって買いに来た

僕は子供の頃にカトリックの文化に影響されたので、以前から旅行する度にパリという場所に居心地の良さを感じていました。それで一九八九年、ポンピドゥーセンターの近くのサン・マルタン通りに部屋を借りたんです。エレベーターのないアパルトマンの五階、三〇平米くらいの簡素なワンルームでした。

クラブの方はバスティーユのかつての城壁のすぐ外、職人街の一角に見つけた家具屋さんを改築しました。これまでのパリにはないスペースだったので話題になり、「フィガロ」紙に見開きで紹介されたりもしたんですよ。

その後、家はサン・マルタン通りから、クラブの近くの家具付きの物件へ移しました。深夜二時に帰って、日中は日本に送る音楽の仕事をして、夕方からまたクラブに出るという二重生活でしたね。

このクラブを経営していたのは二年ほど。ある日、「カフェ・コスト」で有名なフランスのホテル王・コスト兄弟が、珍しがって買いに来たんです。画期的ではあったけれど集客が思わしくなかったので運が良かったともいえます。