小学校に上がった頃にはアニメの作画を手伝うように

父はアイデアが湧き出て湧き出て止まらないという人で、二〇〇四年に亡くなる直前まで絵を描き続けていました。

絵を父にいつも見せていた僕は、小学校に上がった頃にはアニメの作画やセル塗りを自然と手伝うようになっていました。中学生になってからは特撮スタジオでの仕事も手伝い始め、高校生になると父の会社「ピー・プロダクション」の事業部で請け負っている怪獣ショーの台本書き、オリジナル曲の作曲、セリフの録音までやる戦力になっていました。だから、父は当然、僕が跡を継ぐものだと思っていたはずです。

とにかく仕事と家庭が混然一体、家族の中に仕事があって、仕事の中に家族がある、という家でした。『快傑ライオン丸』を作っていたときなんかは、庭で撮影用の白馬まで飼っていました。ライオン丸は変身すると、羽の生えた白馬に跨って天から降りて来る。そのシーンの撮影の度に馬を借りていたのではまどろっこしいと、父が白馬を購入してしまったんですよ。

父親のうしおそうじ氏が率いる「ピー・プロダクション」は、手塚治虫原作『マグマ大使』の特撮が大きな人気を博した。事業拡大期のプロダクションを陰で支えたのは、母親の那古美さんだったという。

手塚治虫さんの家には二度、小学校低学年の頃に連れて行ってもらった記憶があります。その手塚さんに可愛がられていたのが母でした。

母はもともと父の担当編集者で、結婚後は「ピー・プロダクション」の経理や事務の全てを担っていました。スタッフからの人望も篤く、家族の間では、「鷺巣さんが『マグマ大使』をやるなら安心だ」と手塚さんが言ってくれたのも、おそらく「ママがいたからだ」ということになっているんです。

修道院で五歳からバイオリンとピアノを習った

ピープロの実務を一手に引き受けていた母は、仕事が忙しくなると離れの事務所に張り付いていました。だから、僕や姉、妹、父も食事を自分で作るようになりましてね。以後の我が家の食卓は、全員が違うものを好き勝手に食べている状態でした。家族五人が同じ食卓に座って団欒しているのに、並んでいる料理は別々、父は出前を頼んでいたりするのですから、いま振り返ると何だかとても不思議な光景です。

僕は父親に絵を見てもらい、母親には文章を読んでもらっていました。母は編集者だったので、校正が厳しかった。子供相手でも容赦がなくて、原稿用紙をいつも真っ赤にされて戻されていたものです。

音楽と出会ったのも、この母親・那古美さんの勧めによるものだった。家の近くにできた修道院で五歳からバイオリンとピアノを習った。しばらくして地元の小学校からフランス系カトリックの名門校・暁星小学校に編入した。

カナダのケベック・カリタス修道女会の修道院で、派遣されてきたシスターが何人かいましてね。彼女たちが宣教活動の一環で近所の子供たちを集め、修道院の聖堂を見せたり、音楽教室を開いたりし始めたんです。

修道院でのレッスンで楽しみだったのは、カナダの珍しいお菓子をもらえること。それとケベックはフランス文化を背景に持つ土地なので、修道院に充満していたフランス・カトリックの匂いに僕はすぐに惹かれていきました。その様子を見ていた母が、僕をカトリックの小学校に編入させたわけです。