東京は仕事の総仕上げをして、成果を皆と分かち合う場所
ロンドンに家を借りたのは一九九六年、クロックスリー・ロードという場所で、地上階に二部屋と奥庭のある一軒家です。周囲には知り合いのミュージシャンが多く住んでいます。
思えば一九九〇年代以降は年に六回から十二回、パリとロンドン、荻窪の家を往復する生活を送っています。
三都市の拠点にはそれぞれ役割があって、パリでは譜面を集中して書く。スタジオとミュージシャンの多いロンドンでその書いた譜面を録音する。そして、東京は仕事の総仕上げをして、成果を皆と分かち合う場所――という感じですね。
特に重要なのは、やはり曲を書くパリです。夜中にどこにいても歩いて帰れるし、徒歩圏内にオーケストラの演奏を聴ける場所がいくつもある。自分が子供の頃、最初に音楽に親しんだ修道院と同じ文化圏だからでしょう、ピアノやバイオリンを習い始めたときの感情がそのまま心の裡側から出てくる気がするんです。
庵野監督とはいつも「一対一」のやり取りをする
アニメーションの仕事をし始めたのは、一九八〇年代の前半からです。当時は僕が「うしおそうじの息子」だと知っている人は誰もいなかったのですが、「機動戦士ガンダム」の『めぐりあい宙』の編曲をすることになった。それがヒットしたので、アニメ業界のプロデューサーが注目してくれたんです。そうしてアニメ関係の仕事を引き受け続けたからこそ、その頃は作画スタッフの一人だった庵野監督とも後に知り合えたわけです。
庵野監督との仕事が他と異なるのは、いつも“外野”の関係者が全くいない状態で、一対一のやり取りをすることです。
僕は作った曲を彼にそのまま送ってしまいますし、彼も何かあれば僕に直接、物事を伝えてくるので、お互いにものづくりだけに集中できる。そういう関係が四半世紀にわたって続いているのは、とても稀有なことだと思います。『シン・ゴジラ』もお正月に家族同士で食事をしているときに出た話でしたから。
それにしても、東宝のスタジオは五歳くらいのとき、父親に初めて連れられて行った場所。五十年の歳月を経てまたあの場所に仕事で戻ってくるとは、夢にも思わなかったです。さらに『シン・ゴジラ』のときは、パリで書いてロンドンで録音したその曲を、荻窪の家のスタジオに庵野監督が聴きに来ていました。
二人でかつての映写室に入って、絵のデータに音を入れながら、ああでもない、こうでもないと話をしたのですが、そのときに何とも言えない懐かしさを胸に抱きました。
父が愛した映写室で作業をしていると、僕はまるで子供の頃過ごしたあの家に、自分が帰ってきたような気持ちになったんです。