そんなことはない。日本はれっきとした三権分立の国だ。日本の最高裁の判断を国会や内閣は尊重するというのが日本国憲法の建前である。そうであれば、国際評価機関による民主主義のレベル評価として日本と遜色のない韓国における大法院(最高裁)の判断を韓国政府が尊重することについて、日本は批判できないはずである。韓国政府に韓国大法院の判決に従うな! と主張すれば、今度はそれは我々日本に、日本の最高裁の判決に従うな! というかたちでブーメランとして跳ね返ってくる。

(略)

戦時下の労働環境で、日本企業は加害者の可能性が高い

植民地時代の合法、違法を論じたところで双方の見解は平行線となるので意味がない。だからこそ、徴用工問題は、通常の労働問題として見るべきである。2007年の日本の最高裁判決も同様の思考である(参照:Vol.130【韓国徴用工問題(2)】2件目の「賠償命令」でいよいよ冷え込む日韓関係。収拾のために何をすべきか?)。

問題とされた労働問題の発生当時、日本は戦争状態にあった。そのような特殊性から、いちいち当時の日本企業の労働環境を問題視すべきではないという意見もあるが、そのような考えは、まさに政府、お上に従属する悪しき日本人的思考である。

人間は悲惨な戦争の歴史から、戦争にも一定のルールを作り始めた。それは第一次世界大戦後に顕著に表れた。戦争とは人を殺す行為であるが、しかしその殺し方に一定のルールを設けた。一定のルールを守ることを求めながら、相手国に対する戦闘行為を正当化したのである。

もちろん通常兵器による無差別爆撃や原爆投下など、相手国に対してそのようなルールが守られていない戦闘というものはたくさんあるが、それがある意味戦争というものである。

しかしこのような戦争の特殊性を根拠に、国家が自国民に対して行った非人道的行為が全て許されるわけではない。むしろ相手国、相手国民に対する非人道的行為よりも、自国民に対する非人道的行為のほうが厳しく断罪されるべきものであろう。相手国に対しては、自分たちが生き残るために行き過ぎた行為になる場合もあろうが、しかし自分たちが生き残るために、自分たちの仲間に非人道的行為を行うというのは全く正当性がない。

ここが僕が日本の戦前社会を決定的に忌み嫌う理由でもある。日本の戦前社会、戦前・戦中の日本政府は、自国民を守ることに全力をあげなかった。

文在寅大統領を批判する威勢のいい日本の政治家やインテリ連中は、日本の戦前社会や戦前・戦中の日本政府を褒める連中が多い。しかし戦前社会や戦中の日本政府は、自国民を守るどころか、自国民を犠牲にすることを平気でやった。それは国体という抽象的なものを守るために、そして軍部という組織や戦争指導者、そして幹部たちが自分の地位を守るために自国民を犠牲にしたのである。沖縄戦もそうだし、特攻隊もそうだし、その他の戦略性のない作戦行動の全てがそうだ。

戦争とは自国民を守るためにある。ゆえに自国民保護が至上命題である。この思考が足りなかったのがまさに戦前・戦中の日本社会や日本政府である。だから僕はこれらを許せない。