普通の男に『マディソン郡の橋』はあり得ない
小説『終わった人』は、定年を迎えた元エリートサラリーマン・田代壮介の第2の人生を描いています。
壮介は、東大法学部卒の元銀行員で、暇を持て余しながらもプライドが高く、まずジムに通い、カルチャースクールに通い、大学院受験を目指して、最終的にはベンチャー企業に再就職(して大失敗)。仕事や肩書きを失っても、「私が私でいられる場所」を探した末の行動なのですが、とにかく仕事の現場にいたいのが本音です。
そういった行動のすべての原動力は、「サラリーマンとして成仏できなかった」という無念さです。国内トップのメガバンクの出世コースから突然の子会社への出向、そして転籍させられて、そのまま定年を迎えて、サラリーマン人生の幕が閉じてしまった。でも、仕事で満たされなかった仕事人間が、定年後、しかも仕事外のことで満たされるはずがないんですよね。それにイラ立つ。
「第2の人生への軟着陸が難しい男」の要素
特定のモデルはいませんが、私がこれまでに見聞きした「第2の人生への軟着陸が難しい男」の要素を詰め込んだのが壮介です。だから、みっともない部分も含めて、リアルであることを一番大切にしました。その結果、多くのシニア世代から「これは自分だ」とか「これは私の夫じゃないか」という感想をいただける物語になりました。
中でも一番リアルなのは、カルチャーセンターで働く39歳の子どもなしのバツイチ女子・浜田久里への片想い。壮介は「忘れた」「もう忘れる」「諦めよう」と言いながら、作中何度も何度も彼女のことを思い出し、なにかにつけて呼び出しています。
実は私、『終わった人』で恋愛要素を描くつもりはなかったんです。だって、時間ばかりいっぱいあって、仕事もない、お金もない、見た目もださい。60歳を超えた「オジサン」が、若い女にモテるはずがない。若い女じゃなくたって、そんな男と恋はしませんよ(笑)。
だから、50代の(男性)担当編集者が「恋愛要素が入らないのは寂しいな」と言ったときも、「『終わった人』のめくるめく恋なんて、映画の中だけよ」と最初は笑いました。映画『マディソン郡の橋』みたいに身を焦がすなんて非現実的、と。