言論で挑発しておいて、相手の「訴える権利」を奪うのもおかしい
SLAPP訴訟だ! 不当訴訟だ! と叫ぶ人たちは、「言論には言論で対抗せよ」とも主張する。
それは確かに正論だ。しかし、だからといって「名誉を傷つけられた」と感じた者の訴える権利を制限することまではできないだろう。あくまでも訴える側が、訴えるのか言論で対抗するのかを選べばいい。名誉棄損ギリギリの表現をやった者が、名誉を傷つけられたと感じた相手に対して、訴えるのではなく言論で対抗してこいと強制することは行き過ぎである。
ただし大手の言論機関が、一個人を名誉棄損で訴えるのはどうなのか? と疑問を抱く人も多いことは確かだろう。今、朝日新聞が文芸評論家の小川栄太郎氏を訴えているようだが、確かに朝日新聞はいくらでも自社の紙面を使って小川氏に反論できる。だから、もし自らの紙面を使って言論で対抗せずにいきなり訴訟を使ったという点がおかしいと国民が感じれば、朝日新聞の評価が下がる。ゆえに、このような点を小川氏は裁判や裁判外でガンガン主張すればいいと思う。そのこと自体が言論によるやり合いで、最後は国民の判断だ。朝日新聞に訴えられたことをもって、訴訟自体が不当訴訟だ! SLAPP訴訟だ! と主張するのは言論人である小川さんらしくない。
裁判でそして裁判外で徹底的に朝日新聞とやり合って、小川さんの主張を裁判所に認めさせ、朝日新聞に勝訴したらいいだけだ。近代国家においては訴える自由が原則であることを忘れてはいけない。まあ、これは裁判を飯のタネとしている弁護士稼業特有の視点での意見と思われるかもしれないけどね。
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元へ。誰かに対して批判的表現行為をした者が、批判相手に対して、私を訴えるな! 言論活動で勝負してこい! と強要するために、SLAPP訴訟=不当訴訟という概念を使い、相手の訴える権利を奪うのはちょっとやり過ぎだろう。あくまでも裁判例に基づいて、訴えた側の請求権が全くないことを明らかにした場合に不当訴訟を認める場合もあるけど、それはいったんは訴えることは認めた上で、裁判の結果最後に不当訴訟が明らかになることである。裁判を始める前から相手の訴える権利を奪うものではないし、そもそも不当訴訟と認められるのは超例外的な場合だ。
つまりSLAPP訴訟=不当訴訟という概念は、いったん訴えを認めた上で、裁判の結果、明らかになるものである。裁判もやらない段階で、SLAPP訴訟という概念でもって訴える権利が否定されるものではない。
当事者の力の強弱、訴えた側に相手の言論の封殺・恫喝目的があったかどうかで不当訴訟になる場合があるということであれば、小川さんには是非、朝日新聞相手に反訴(小川さんが朝日新聞を逆に訴える)をしてもらって、SLAPP訴訟なる概念を確立してもらいたい。さらには今回の裁判の経緯を全て公表してもらい、朝日新聞の訴訟がいかにおかしいかを世間に訴えていくべきだ。SLAPP訴訟なる概念を用いて初めから相手の訴える権利を奪うことの方が近代国家としては不当だと思う。
SLAPP訴訟という概念を用いる者は、今回の訴えは表現を委縮させる圧力だ! 表現の自由を守れ! 表現の自由を委縮させるな! と叫ぶ。だけどSLAPP訴訟という概念を用いることこそが、訴える自由を委縮させる圧力になっていることには頭が及ばないようだ。
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※本稿は、公式メールマガジン《橋下徹の「問題解決の授業」》vol.91(2月13日配信)を一部抜粋し簡略にまとめ直したものです。もっと読みたい方は、メールマガジンで! 今号は《【ネット時代の表現の自由(3)】名誉棄損を避け自由に情報発信するための「超実践」ポイント〈6〉(後編)》特集です!!