「一個人」からさんざん攻撃されてきた僕の見解

裁判の当事者からすれば、訴える者はいつも勝つつもりでやっている。他方訴えられて、それはSLAPP訴訟だと叫ぶ者は、そんな損害賠償請求の訴えは成り立たず、勝つ見込みのない不当訴訟だと主張する。でも、勝つか負けるかは結局裁判をやって判決が出てからでないと分からないことなんだよね。

だから別件で松井一郎大阪府知事が米山隆一新潟県知事を訴えている件があるんだけど、米山氏は「松井さんは勝つ見込みもなく敗訴覚悟で訴えている。それはSLAPP訴訟で不当だ」というようなことを言っている。しかし松井さんは勝つつもりでやっている。判決が出る前に、この裁判の勝ち負けを勝手に判断している米山氏はいつから裁判官になったのか。勝ち負けを決めるのは米山氏ではない。裁判官が勝ち負けを決めるのだから、米山氏の主張はちゃんちゃらおかしい。

ところが残念なことに、力の強い者が一個人の表現を訴えることは言論封殺そのもので民主主義の破壊行為だ! 表現の自由を委縮させるSLAPP訴訟だ! という主張が昨今頻繁にされるようになってきた。

しかし、力が強いか弱いかの目安はあいまいなもので、個人でも影響力の強い者がいる。それにもし一個人だったら訴えられることはない、というルールが確立してしまえば、逆にそれを利用して、力が強いと一般的に思われている大企業や政治家などに対し、一個人の立場で、名誉棄損すれすれかそれこそ名誉棄損にあたる表現をバンバンやる事例が増えるリスクが高まる。和解に持ち込み和解金を得ようとする目的でね。ネットを活用することで一個人が表現行為を簡単に、かつある程度影響力を持つ形でできるようになった今の時代だからこそ、一個人に対してSLAPP訴訟なる概念を用いて「名誉棄損では訴えられにくい」という特権を与えていくことがいいのかは慎重に考える必要があるね。

これからは一個人もネットの活用によって強力な表現の武器を保有する時代になる。単純に一個人は弱い存在だと決めつけることは危険だ。これは一般的に強い立場だと位置づけられる政治家として、弱い立場だと位置づけられる「一個人」から、あることないこと、さらには名誉棄損に当たることをネットで散々言われ続けても我慢してきた僕の立場からの意見でもある。