体制製造家は「独力型」と処理家は「システム型」
司馬遼太郎が、興味深い指摘をしている。歴史上の指導者は、「体制製造家」と「処理家」、この2つにわけられるのだという(「体制製造家と処理家」『手掘り日本史』所収)。
「体制製造家」は、「国家をどうするか」について明確な理念があるタイプ。みずからの構想にこだわるゆえに、安易な妥協を拒み、多くは非業の死を遂げる。「処理家」は、「他の誰かが作ったシステム」を運用することに長けている。オリジナルなヴィジョンがないから、環境に応じて自分を変えていき、無難に生きのびる。織田信長、西郷隆盛、大久保利通などは「体制製造家」であり、徳川家康、山県有朋、伊藤博文は「処理家」に属する。
<[体制製造家の]才能はまことに華麗で、しかもすさまじい。だが、これは人間のなかにはめったにない才能です。処理家のほうは、たとえば東京大学法学部が生産し得るわけですし、いくらでも出てきますけれども、新たな体制を創始する人間はなかなか出ないんですね>
司馬は、「処理家」に対していささか過酷に見える。明治初年の段階で、日本のありようをデザインする地位に、山県と伊藤は到っていなかった(彼らは西郷や大久保より、10歳ほど年少である)。また、伊藤は朝鮮で暗殺されて一生を終えている
そもそも、「強固なシステムを造りあげた」という評価があてはまるのは、むしろ家康、山県、伊藤の側だ。家康は幕藩体制を「完成品」として残したが、信長の統治は発展途上のまま終わった。伊藤は憲法と帝国議会の、山県は陸軍と警察の、それぞれ「建設責任者」である。ある人物が何かを作ったか、処理しただけなのかは簡単に決められない。
ただし、司馬が「処理家」に分類する人物は、確かに共通して「華」に欠ける。たとえば家康について、司馬は次のようにのべている。
<徳川氏の封建制度というのは、日本のためのものでも誰のものでもなく、徳川氏一軒のためのものです。その制度は家康の処理感覚から生まれたもので、製造感覚からうまれたものではありません。それを家康の養成した官僚たちが維持相続していく>
「独創性」の有無だけで、司馬は「製造」と「処理」をわけているのではないようだ。
「体制製造家」は、組織に頼らず自分一個で事を成す。システムの構築に成功しても、そこから「個人的利得」を引き出したりしない(『龍馬がゆく』の坂本龍馬は、新政府の人事をみずから構想するが、その案のなかに彼自身のポストはなかった)。「処理家」は、権力ずくで組織を動かす。自分が手がけた法や組織を私物化し、公益を損ねてでも利得をむさぼろうとする。
こう考えると、「体制製造家」は「独力型」、「処理家」は「システム型」とでも呼ぶほうがよいことがわかる。「独力型」で名を成すには、傑出した天分が必要だ。これに対し「システム型」の成功者は、「凡人」の延長上にいる。