民衆を信じないリーダーを民衆は愛さない
それではチャーチルは、二者のうちどちらだったのか。どう考えても「システム型」とはいえそうにない。
第1次大戦と第2次大戦、いずれにおいてもチャーチルは、「超積極策」を矢継ぎ早に提案している。ノルマンディー上陸作戦に際しては、国王とともに攻撃開始を直接見とどけると主張、周囲をあわてさせた。そこまで「戦争の現場」にかかわろうとした動機は何か。チャーチルは「栄誉」を求めていたのである。ジョンソンは書いている。
<マラカンドでの行動(引用者註:23歳のとき、インドで叛乱軍との戦闘に参加し、勲章を得たこと)を説明する母への手紙には、目立ちたがり屋であることを自覚していると書いている。勇敢で気高い行為のためにチャーチルは観客を必要とした。>
<イギリスの君主と首相が五年に及ぶ戦争にびくともせず、屈服せず、大陸の奪還を命令している。それこそ彼がねらっていた「一面ダネ」だった。しかもある意味で、これは彼自身の問題、彼のエゴを満たし、業績をつくるためだけの記事ではなかった。それによってイギリスという国と、その覚悟を世界に向けて示すものになるはずだった>
「観客を必要としている」点、チャーチルは完全に「無私」ではなかったかもしれない。だが彼は、「富」や「権力」そのものを「活動の目的」にしたりしなかった。また、政治的意志をつらぬく手立てとしては、弁舌や文筆によって、直接支援を求めることを最優先させた。組織を使って敵を陥れる「策謀家」とは、根本からちがっていたのである
「処理家」として司馬が名前をあげている山県有朋は、そうした「策謀家」の典型だった。にもかかわらず、いくつかの特徴を山県とチャーチルは共有している。
日清戦争で山県は、第1軍の司令官となり海を渡った。当時としては「老齢」といえる50歳を越え、すでに首相も経験。そういう立場にありながら、実戦に参加する「暴挙」に出たのである。
日露戦争の折にも満州軍総司令に就任して大陸に赴こうと画策し、周囲に止められている(明治天皇は、「どうか私の側にいて補佐役をしてくれ」といって山県に自重を求めたという。ノルマンディー上陸作戦の折、チャーチルを現地に行かせまいとして英国王が口にしたのも、これとまったくおなじセリフであった)。このとき山県は67歳。「現場好き」の度合いではチャーチルに劣らない。
山県はしかし、「向こうみずの血」が騒いで実戦にこだわったわけではない。彼は集団を手足のごとくあやつることを好んだ。陸軍や内務省に閥を作り、それを利用してライバルを封じ込めることもしばしばだった。みずから方々に出ていったのも、「自分の組織」を他人にゆだねたくなかったからである。
チャーチルは、シェイクスピアとディケンズの全集を合わせたほどの莫大な著述をのこし、ノーベル文学賞に輝いた。山県も、和歌や漢詩をはじめ文芸に親しみ、遺した作品の評価は高い。「言葉をあやつる才能」という点でも、チャーチルと山県は通じている。
ただし山県は、「一般国民には大局を見る目はない」と信じていた。だから、論文や演説を通して、広く支持を呼びかけることを嫌った。ここのところではチャーチルと山県の懸隔は大きい。
チャーチルの告別式は「国葬」として行われ、30万人もの会葬者が集まった。山県の葬儀もまた「国葬」となり、1万人の参列が予想されていた。ところが、実際に弔問に訪れたのは千人足らず。その閑散としたありさまは、新聞で皮肉られるほどであった。強大な軍事力を整え、日本を「植民地化」の危機から救った点、山県の「多数の幸福」に対する貢献は大きい。それでも、民衆を信じなかった彼を、民衆もまた愛さなかった。(後編に続く)