人使いを極めた男の勝利と晩年のきしみ
孫権は70歳で天寿を全うしてこの世を去りました。
蜀の劉備が孫権を攻めたとき、呉の趙咨という人物が魏に派遣されました。
文帝(曹丕)が孫権の主君ぶりを尋ねたとき、趙咨は次のように答えています。
「魯粛を平民の間から取り立てられました。これが呉王の聡です、呂蒙を兵士たちの間から抜擢されました。これが呉王の明です、于禁を捕えながら殺さずに釈放されました。これが呉王の仁です。荊州を手に入れるとき、兵器に血ぬることがございませんでした。これが呉王の智です。三つの州に拠りつつ虎視眈眈と天下を窺っておられます。これが呉王の雄です。身を屈して陛下に臣事しておられますが、これが呉王の略なのでございます」(書籍『正史三国志呉書I』)※于禁は魏の武将、関羽に捕らわれていた。
人を見抜き、良い人材を抜擢し、権謀術数に長けてプライドを捨てて実を取る。
まさに孫権の姿を言い当てたものだと言えるでしょう。
さらに言えば、大国に使者として向かい、このようなセリフが吐ける趙咨という人物を選んでいること自体、孫権の人使いの巧みさを表わしています。
このように人使いの巧みなトップとして呉の皇帝になった孫権ですが、晩年は愚かな軍事侵攻をおこない、跡継ぎの選定で過ちを繰り返しました。彼が同格の跡継ぎ候補を立ててしまったため、呉の家臣団は二分されて大混乱を招きます。
そのうえ愛妾の嘆願から、彼は皇太子候補にしていた二人を廃位して、末子の孫亮を次の皇帝に指名します。しかし、後継者の争いで太子を補佐していた名将の陸遜は憤死、後事を託した重臣の一人、諸葛格はのちに暴走し、呉の政治・軍事は大混乱となります。
彼は若いころから嘱望され、父や兄に仕えた重臣たちに囲まれて歩んできました。
しかし時代が流れ、その重石が外れたとき、彼の過ちを止める人物がいなくなります。
生まれながらに重臣や名臣に囲まれた孫権は、正しい批判やアドバイスを得る機会が、ごく自然に環境の中にあると思い込んでいたのかもしれません。しかし自戒を促してくれる師や環境は、強く意識して自ら手配をしなければ、すぐに消えてしまうものでした。
孫権は権力を拡大しながらも、年齢とともに消えた名臣たちに代わる、自分の襟を正せる人物を周囲に集めませんでした。それが彼の晩節を汚す落とし穴となったのです。