──日本は近代化に成功したが、その後、多くの犠牲を出す戦争に突入してしまったことがわかる。「どこでボタンを掛け違えたのか」と思ってしまう。
【浅田】どのルートでいっても同じ結果になったのではないか。当時の資本主義は植民地経営を前提にしていた。植民地なしでも資本主義が成立するとわかったのは、第二次世界大戦で大きな犠牲を払った後だ。当時、列強と肩を並べることは、植民地支配される側からする側に回ることを意味する。その考えから朝鮮併合が起きたし、「ここまで国土が広くなるとソ連が攻めてくるかも」という恐怖感から満州国をつくった。ところどころで歯止めをかけるチャンスはあったが、大きな流れを見ると、運命的だったと思う。
──読後に感じるのは、「いま日本は戦前と同じ道を歩んでいるのか」という危惧だ。
【浅田】明治維新から昭和の戦争まで約70年だ。その間に日本という国家は急速に膨張した。しかし成長には相応のリスクが伴うものであり、危機感を持つ人もいた。1941年の日米開戦時には「それ見たことか」と考えた人も多かった。今年は終戦から70年。戦後、経済成長を遂げて先進国の仲間入りをしたという点でも、かつてと時代状況が似ている。違うのは、豊かになりすぎて感覚が麻痺しているのか、反動への危機感がないことだ。いまこそ歴史を学び、同じ轍を踏まないようにすべきだ。
──幕末のペリー来航以降の日米関係を長期的な視点でとらえているのが面白い。
【浅田】日本はGHQの占領政策でアメリカ化したと考えている人が多いが、それは間違いだ。日米関係が始まったのは、1853年にペリーが来航してから。1858年には日米修好通商条約が結ばれ、アメリカは日本にとって最恵国待遇の国になった。じつはペリー来航の1カ月後にロシア艦隊がやってきたが、もしロシアが先に着いていたら、最恵国待遇を受けたのはロシアだったかもしれない。
アメリカが先に来たのは運命のいたずらにすぎないが、それから約160年、太平洋戦争の4年間を除けば、日本とアメリカはずっといい関係を続けてきた。1945年9月、東京湾にミズーリ号が来て日米が降伏文書に調印を行った。そのときマッカーサーの後ろに掲げられていたボロボロの星条旗は、ペリーが乗ってきたサスケハナ号に掲げられていたものだった。あの星条旗を掲げたのは「これだけ長い歴史の間仲良くやってきたじゃないか。水に流して元に戻ろうぜ」というマッカーサーのメッセージだったと思う。