84年に入社した上田は、シャシー設計部部長を務めた後の08年に長年憧れていた新型車両の開発責任者(チーフエンジニア)に就く。初めて担当したのは、「イース(後にミライース)」。10・15モードで1リッター30キロという、当時としては超低燃費を目指した軽自動車だった。

ところが、第41回東京モーターショーが閉幕した直後の11月、突如として経営陣から開発にストップがかかった。モーターショーにはイースも出品されていたのにだ。

「企画そのものを見直せ」と突然命じられ、「目の前が真っ白になりました」と上田。開発プロジェクトが途中で中断されることは過去にもあり、そのまま流れてしまうケースが多かったのだ。「何てことだ……」。嘆くしかなかった。

09年5月、親会社のトヨタがHVの3代目「プリウス」を発売した。燃費性能はリッター38キロ(10・15モード)で、販売台数は年末までに20万台を突破。08年まで5年連続販売台数1位だったワゴンRを抜き、プリウスは同年の販売台数1位となる。「軽の王者がHVに負けた」(販売関係者)のだった。

時代がHVへと動いていくなか、軽自動車そのものの存在意義が問われていた。こうしたなか、「イースのインパクトは小さい。このままではHVに対抗できる価値を創出できないだろう」とダイハツ経営陣は判断した。

しかし、中断から1カ月が経過したとき、「開発プロジェクトのメンバーの本籍を、各所属部署から開発チームに移せ」との指令が発せられる。当時は副社長だった伊奈功一(後に社長、現在は会長)が発信源だ。トヨタ専務から転じた伊奈は、わが国自動車業界における生産技術の権威である。

10年の春先までに、伊奈ら経営陣を後ろ盾としながら、上田は社内から40代を中心に約30人を独自に集める。エンジンやシャシーなど各設計、原価企画、調達、デザイン、生産技術、実験、営業、さらに広報などの部署からだった。そして、全員を開発プロジェクトに異動させたのだ。