千代は“百万長者になる処世術”と受け取った
資産200万円と噂された人物が、一年中、干した蕨を食べている。
当時の資産200万円は、1円=5000円の概算で現代なら約100億円。忠の基本給80円で割れば、2000年分を超える。2000年分の給料に相当する財産の持ち主が、毎日、山で蕨を摘んでいたのだ。
どんな健康志向の富豪だろうか。なんにせよ、こうした金持ちになってもぶれない中津井の生活を神埜は「千代はこれを『百万長者』になる驚くべき処世術であると受け取った」と評している(『宇野千代の札幌時代:女流作家の誕生』)。
この後、忠が見つけていた間借り先に移り、札幌での生活を始めた千代。夫は帝大卒の学士様である。給料は高いし、妻が働く必要もあまりない。優雅な奥様生活が始まるに違いない……全然そんなことはなかった。
ドラマでも描かれた通り千代は、仕立ての内職を始め、頼母子講にも加入する。史実では、そのきっかけは下宿先の大家との出会いだった。
二人が下宿したのは、現在の札幌市中央区南一条西五丁目にあった松島安吉・コウメ夫妻の家である。『生きて行く私』で、千代はこの部屋をこう書いている。
“ガラス1枚”先にいる大家は、親戚の元部下
六畳に、二畳の板敷き。玄関のすぐ脇。そして、その奥は大家の住まいで、境目はガラス障子が1枚である。
ガラスである。透けている。
現代なら、新婚夫婦が借りた部屋の壁が、大家の居間に面したガラス戸だった、という状況だ。しかも大家は「いつでも」そのガラス障子を開けたてして、世話を焼いてくる。千代は感謝しているようだが、どう考えても、ほぼ見守りという名の常時監視である。
さて、千代は自伝に、この大家の名前を書いていない。名もなき老夫婦の正体を突き止めたのが、神埜である。『宇野千代の札幌時代:女流作家の誕生』の中で神埜は、大家が松島夫妻であることを特定し、その息子に話を聞いている。
それによれば、松島はもともと、中津井が雨龍屯田大隊(現在の深川市にあった)にいた頃の部下だった。つまり、中津井の元部下が、中津井の紹介で、中津井の親戚を預かったというわけだ。
松島は除隊後も現地で農業を続けていたが、日露戦争に召集され、奉天会戦で負傷する。後遺症で農作業が難しくなり、札幌に出て働いていた。
自宅は、台所のほか、8畳の居間と6畳間が二つ。長男が独立し、長女が嫁いだ後、松島夫妻はそこで3人の子供と暮らしていた。そんな家へ、新婚夫婦が間借りに来たのである。

