親戚は大地主、夫の初任給は小学校教師の2倍

千代という人、どういう気分なのか自伝的な作品では虚実を交えながら書く癖がある。ゆえに、判然とし難いが、札幌時代の千代を調査した神埜努は『宇野千代の札幌時代:女流作家の誕生』(共同文化社、2000年)の中で、帝大の卒業式が終わった後に忠が先に東京を発ち、間借りの確保など準備をしたのだろうと推察している。

ここで神埜は、当時の給与規定から忠の初任時は基本給が十等80円、それに諸手当があったと考えている。当時の小学校教師の初任給が40〜45円程度。上野〜札幌間の三等運賃が約13円である。半分を送られても、それまでの貧乏生活で見たこともない大金である。

しかし、帝大卒の新入社員の妻として札幌で優雅な暮らしが始まるかと思えば、そんなことはなかった。まず夫婦は1週間ほど、中津井の家で暮らしていたと推測される。この家のことは、後に千代も作品で言及している。

私はこの叔父を頼って行った。大きな立派な家。若い娘が初めて玄関に立つと、なんだかしんとして怖いような家。その筈である。叔父は北海道の大地主で、資産は200万を下らないという話であったから。(『わたしの青春物語』酣燈社、1947年)

13年穿き続ける足袋、蕨をとる日々

中津井の邸宅は、現在の札幌市中央区北2条西1丁目にあって、敷地は180坪、大きな木造屋で柱は四寸角材、天井は柾目の総檜造りというとんでもない豪華な邸宅であった(『宇野千代の札幌時代:女流作家の誕生』)。

しかし、さすがは小学校卒から苦労して上りつめた人物である。その生活は慎ましかった。そのこともまた、千代は自伝的作品に何度も書き記している。中でも象徴的なのが、第29回(11月5日)で浪江の語った「13年も穿いた足袋」のエピソード。これは史実どおりのものだ。

「『ごらんなさい、この足袋を。今年でちょうど13年穿いているんですよ。』と、ある日のこと叔母が自分の穿いている足袋をそっと脱いで私に見せた(『わたしの青春物語』)」

この足袋の話は『或る一人の女の話』など複数の作品で語られているくらいだから、相当インパクトがあったのだろう。

しかし、中津井の倹約家ぶりは、この程度のものではなかった。食事はよく蕨の煮付けが出るような簡素なものばかり。しかも、その蕨は買ったものですらなかった。

春、山に蕨が出る頃になると叔父夫婦は、毎日蕨をとりに行った。北国の春は案外ながい。叔父の家の台所は蕨で一ぱいになる。うでる、乾す。この乾燥蕨を作るので叔母は春一ぱい忙しい。そして夏も秋も冬も、この蕨は一年中夫婦の食膳に上る。この話もまた、私を感動させた。(『わたしの青春物語』)
ワラビ
写真=iStock.com/manbo-photo
叔父夫婦は、毎日蕨をとりに行ったという(※写真はイメージです)