決戦を望む兄・秀吉、降伏を探る弟・秀長
つまり秀長は、交渉の窓口を預かる一方で、その交渉が成らなければ戦に切り替わる、という兄の筋書きの中にいた。秀長がどこまで承知していたかを示す史料は、私が確認した範囲では、天野の著書には出てこない。ただ、和の窓口として島津の弁明と取りなしを受け止める役が、戦の準備を進める兄の脇で、同時に回っていたのは確かである。秀吉が戦の準備を進める一方で、秀長はこれから戦うことになるかもしれない相手との交渉を受け持っている。これは、なかなか面倒な役回り……胃に穴が開きそうだ。
ところが、兄と弟では、描いている絵が少し違ったように見える。
天野によれば、秀吉は豊後で島津との一大会戦を企図していた。ところが、秀長が小倉に上陸すると、九州北部の国人たちが次々と味方につき、島津は肥後と日向の守りを固めてしまう。決戦の相手が、豊後に出てこなくなった形だ。秀吉は朱印状で、黒田孝高と蜂須賀家政が秀長に誤った進言をしたと叱っている。
一方の秀長は、島津を滅ぼす気はなく、長宗我部と同様に降伏させる機会を探っていた、と天野はみる。実際、1587年2月には、将軍義昭が島津義弘に御内書を出し、和睦についての秀長の意向を伝えさせている。
“秀長の見せ場”が端折られたのは惜しい
そして根白坂で島津が敗れた後、秀吉自身が書状に、義久が身命を捨てて秀長の陣に駆け込んだので、仕方なく赦免した、と書いている。「仕方なく」である。大会戦で叩き潰すつもりだった兄にとって、弟がまとめた降伏は、少々不本意だったのかもしれない。
ただ、九州平定は、秀長にとって、生涯最大の戦果だったかもしれない戦いである。島津氏の降伏は秀長の戦功であり、戦後の東九州を任されたのも秀長だった。その年の8月には、大納言にまで上り詰めている。そんな見せ場を、ドラマは描かなかった。第42回(11月1日放送)では、九州征伐はナレーションで20秒ほど語られただけで、描かれたのは戦後の肥後一揆とバテレン追放令であった。
複雑怪奇な九州情勢を描くことより、ドラマのわかりやすさを優先したのか。でも、やっぱり魅力的な九州戦国時代が端折られたのは惜しい。
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